は、この青年アリョーシャが、決して狂信者でもなければ、また、少なくとも自分の考えでは、けっして神秘主義者でさえなかったことである。前もって遠慮のない意見を述べるならば、彼はわずかに若き博愛家にすぎず、修道院の生活にはいったのも、ただその生活が彼の心をうち、いわば世界悪の闇から愛の光明を願い求める彼の魂の究極の理想として、そのころの彼の心に映じたからである。またこの修道院の生活が彼の驚異の念を呼びさましたのも、その中に、そのころ、彼の目してなみなみならぬ人物とする、有名な長老ゾシマを、発見したからであった。彼はやむにやまれぬ心の初恋のような熱情を捧げつくして、この長老に傾倒した。もっとも、彼はすでに揺籃《ようらん》時代から非常に変わった人間であったことは争われない事実である。ついでながら、彼がわずか四つで母に別れながら、その後一生を通じて、母の面影やその慈愛を、『あたかも自分の眼の前に母親が生きて立っているかのように』まざまざと覚えていたことはすでに述べたとおりである。こうした思い出はずっとずっと幼い――二つくらいのころからさえ、よく記憶に残るもので(それは誰でも知っていることであるが)、それは闇の中に浮かび出た明るい点のように――また、それ以上は跡形もなく消え失せた大きな絵から切り抜かれた小さい断片のように、一生を通じて心のなかに浮かんでくるものである。アリョーシャの場合も全くそのとおりであった。彼はある夏の静かな夕暮を覚えていた。窓があいていた、夕日が斜めにさしこんでいた(この斜めにさしこむ光を彼は最もよく覚えていた)、部屋の片隅には聖像があり、その前には燈明がともされていた。聖像の前に母がひざまずいて、ヒステリイのようにすすり泣きしながら不意に金切声をあげてわめきだすと共に、彼を両の手で痛いほど固く抱きしめて、わが子の身の上を聖母マリヤに祈り、また聖母の被衣《かつぎ》の陰に隠そうとでもするかのように、彼を両手に抱き上げて聖像の方へ差し伸べたりしていた……すると、不意に乳母が駆けこんで来て、おびえながら彼を母の手からもぎ取ってしまった、これがそのときの光景であった! アリョーシャはその刹那の母の顔まで覚えていた。その顔は、彼が記憶している限りでは、取り乱してはいたが、美しいものであった。しかし、彼はこの記憶を人に打ち明けることをあまり好まなかった。幼年期にも、少年期にも、彼はあまり感情を面に現わさなかったばかりか、むしろ口数の少ないほうであった。それはけっして臆病のためとか、無愛想で人づきが悪いためではなかった。それどころか、かえって、原因は何か他にある。つまり、きわめて個人的な、他人にはなんの関係もない、自分だけの内心の屈託といったようなものであるが、それが彼にとっては非常に重大なものなので、このために他人のことは忘れるともなく忘れがちになるのであった。しかも彼は人を愛した。そして一生涯、人を信じきって暮らしたらしいが、かつて誰ひとりとして彼をばかというものもなければ、お人好しと考える者もなかった。彼の内部には、自分は他人の裁判官になるのはいやだ、そして他人を非難するのも好かないから、どんなことがあっても人を咎《とが》めない、とでも言っているようなところがあった(それはその後、一生を通じてそうであった)、事実、彼は少しもとがめ立てをせずに、ときには深い悲哀を感ずることもたびたびあったが、いっさいのことを許しているらしかった。この意味で、何びとも彼を驚かしたりおびやかしたりすることができないほどになっていた。二十歳の年に、まぎれもなく、けがらわしき淫蕩《いんとう》の巣窟たる父親の家に身を寄せてからも、童貞純潔な彼は、見るに忍びないときに、黙々としてその場をはずすばかりで相手が誰であろうとも、いささかの軽蔑をも非難をも見せなかった。かつてよその居候であったところから、侮辱に対しては敏感で繊細な神経を持っていた父親は、最初は、腑《ふ》に落ちないような、気むずかしい態度で、『黙り者の腹はさまざま』といった風で彼を迎えたが、結局は、まだ二週間ともたたないうちに、絶えず彼を抱きしめて、接吻するようになった。もっとも、それは泣き上戸の感傷の涙まじりにではあったが、しかも彼のような人間には、ほかの何びとにも感ずることのないような、深い真実な愛情がありありと見えていた……。
それに、この青年はどこへ行っても人に好かれた。それはまだ幼い子供のときからそうであった。自分の恩人で養育者たるエフィム・ペトローヴィッチ・ポレーノフの家へ引き取られると、彼はこの家のあらゆる人たちをすっかり引きつけてしまって、全く本当の子供と同様に見なされたものであった。それにしても、彼がこの家庭へはいったのは、まだきわめて幼少のころで、こんな子供に打算的な悪知恵や、
前へ
次へ
全211ページ中11ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
ドストエフスキー フィヨードル・ミハイロヴィチ の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング