ある僧正であった。部屋の正面の隅には幾つもの聖像が安置されて、夜になるとその前に燈明があげられたが、それは信心のためというよりは、夜分部屋の中を明るくするためであった。フョードル・パーヴロヴィッチは毎晩たいへん遅く、夜明けの三時か四時に寝につくので、それまでは部屋の中を歩き回ったり、肘椅子に腰かけて考えごとをするのであった。それが癖になってしまったのである。彼はよく召し使いを傍室《はなれ》へさげてしまって、まるきり一人で母家に寝ることがあったけれど、たいていは下男のスメルジャコフが毎晩、彼の身辺に居残って、控え室の腰かけの上で寝ていた。アリョーシャがはいって行ったときには、もう食事が済んでジャムとコーヒーが出ていた。フョードル・パーヴロヴィッチは食後に甘いものを食べてコニャクをやるのが好きであった。イワン・フョードロヴィッチもやはり食卓に向かってコーヒーを飲んでいた。従僕のグリゴリイとスメルジャコフが食卓のそばに立っていた。どうやら主人側も召し使いのほうも、目にみえてひどく愉快にはしゃいでいるらしかった。フョードル・パーヴロヴィッチは大きな声で笑ったり、にこにこしていた。アリョーシャは玄関へはいったばかりで、もうあの父の、前からよく聞き慣れているかん高い笑い声を耳にしたのである。彼はその笑い声から、父がまだ酔っ払うというところまでにはだいぶ間のある、ほんの一杯機嫌になっているにすぎないことを、たちどころに推察した。
「ほら、来たぞ、来たぞ!」と、フョードル・パーヴロヴィッチはアリョーシャのやって来たのをむしょうに喜んでわめきだした。「さあ相伴をしろ、ここへ来てコーヒーを一杯やんな――なあに、精進のコーヒーだよ、精進の。熱くて、うまいぞ! コニャクはすすめないよ、おまえは精進を守ってるのだからな、しかしどうだ、少しやらんか? いや、それよりおまえにはリキュールをやろう、すばらしいやつだぜ! スメルジャコフ、戸棚へ行って取って来い、二番目の棚の右側にある。そら鍵だ、早く持って来い!」
アリョーシャはリキュールを断わろうとした。
「なあに、どうせ出すんだ。おまえがいらなきゃ、わしらがやるよ」と、フョードル・パーヴロヴィッチはほくほくしながら、「それはそうと、おまえ、食事は済んだのか、どうだ?」
「もう済みましたよ」とアリョーシャは答えたものの、その実、修道院長の台所で、パンを一切れにクワスを一杯飲んだだけであった。「僕はこの熱いコーヒーをいただきましょう」
「可愛いやつ! 感心感心! こいつはコーヒーを飲むっていうぜ。温めなくていいかな? いや、まだ煮え立っておるわい。すばらしいコーヒーだて、スメルジャコフのお手ぎわだよ。この男はコーヒーと魚饅頭にかけては名人だ。あ、それからまだ魚汁《ウハー》にかけてもな。ほんとにいつか、魚汁を食いに来んか。そのときは前もって知らせるんだぞ……いや待て待て、さっき、わしは今日さっそく蒲団と枕を持って帰って来いとおまえに言いつけたが、ほんとに蒲団をかついで来たかよ? へ、へ、へ!」
「いいえ、持って来ませんよ」アリョーシャも薄笑いをした。
「な、びっくりしたろ、さっきはほんとにびっくりしたろ? なあこれ、坊主、わしがおまえを侮辱するなんてことはとてもできるこっちゃないわい。でな、イワン、わしはこれがこんな風にわしの顔を見て笑うと、どうも平気で見ちゃいられないわい、いや、こたえられないて。つい誘われてにっこりしてしまうのだよ、可愛くてな! アリョーシカ、さあひとつわしが父としての祝福を授けてやろう」
アリョーシャは立ち上がった。しかしフョードル・パーヴロヴィッチはもうそのあいだにも気持を変えていた。
「いや、いや、今はただ十字を切ってやるだけにしとこう、さあこれでよしと。掛けな。ところで、おまえの喜びそうな話があるのだよ。しかもおまえの畑なんだぜ。腹の皮をよるこったろうて。うちのヴァラームの驢馬《ろば》がしゃべりだしたのさ。そのまた話のうまいことといったら!」
ヴァラームの驢馬とは、下男のスメルジャコフのことであった。彼はまだやっと二十四、五歳の若者であった。が恐ろしく人づきの悪い黙り者であった。それも内気な、はにかみやというわけではなくて、反対に彼は傲慢《ごうまん》な性質で、人をすべて軽蔑しているようなところがあった。それはさて、ここで、この男のことをたとえひと言でも述べておかなければならない。しかもちょうど今でなくてはならないのである。彼はマルファ・イグナーチエヴナとグリゴリイ・ワシーリエヴィッチの手で育てられたが、グリゴリイの言いぐさではないが、『まるで恩知らず』に成長して、野育ちの子供らしく隅《すみ》っこから世間をうかがうようにしていた。小さいころに彼は、猫を絞め殺して、あとで葬式のまねを
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