母屋のほうにも台所はあったのだけれど、フョードル・パーヴロヴィッチはここで煮たきをさせることに決めていた。彼は台所の臭いが嫌いなので、夏も冬も食べ物は中庭を通って運ばせていた。だいたいこの家は大家族むきに建てられていたから、奥の者も召し使いも、今の五倍は優に容《い》れることができた。しかしこの物語の当時、この家にはフョードル・パーヴロヴィッチとイワン・パーヴロヴィッチ、それに傍屋《はなれ》の従僕部屋にわずか三人の召し使いが住んでいるにすぎなかった。その三人というのは、老僕グリゴリイ、その妻の老婆マルファ、それにスメルジャコフというまだ若い下男であった。さて、この三人の召し使いについては、も少し詳しく説明しなければならぬ。しかし、老僕グリゴリイ・ワシーリエヴィッチ・クツーゾフのことは、もうかなりに話してある。これは、もし何かの原因で(ときどきそれは恐ろしく非理論的なものであったが)、いったんそれを間違いのない真理だと思いこんだ暁には、しつこくその一点に向かって一直線に驀進《ばくしん》するといった頑固一点張りの人間であった。概して正直で清廉潔白な人物であった。妻のマルファ・イグナーチエヴナは生涯、良人《おっと》の意志の前には絶対的に服従してきたけれど、よくいろんなことを言ってうるさく良人につきまとうことがあった。たとえば農奴解放のすぐあとなどには、フョードル・パーヴロヴィッチのもとを去ってモスクワへでもおもむき、そこで何か小商売を始めたらと、しきりに口説《くど》いたものである(二人のふところにはいくらか小金がたまっていたので)。しかしグリゴリイはいきなり断固として、女はばかばかりぬかす、『女ちゅうものは、どいつもこいつも不正直なもんだでな。けんど以前の御主人の家を出るちゅう法はないぞ、それがたとえどんな人であったにしても、それが今日日《きょうび》こちとらの義務というもんだ』と言い渡した。
「義務ちゅうのはどんなことだか知っとるか?」と、彼はマルファに向かって言った。
「義務ちゅうことは知っとるだよ、グリゴリイ・ワシーリエヴィッチ。だけんど、どういうわけでわしらがここに残っておるちゅうことが義務なもんか、それがいっこうわかりましねえだよ」とマルファが強情に答えた
「わからにゃわからんでええだが、それはそうなくちゃかなわねえだ。もうこのさき口はきくまいぞ」
そして結局、二人はこの家を去らなかった。そこでフョードル・パーヴロヴィッチは夫婦に対してわずかな給金を定めて、それをきちんきちんと支払っていた。それにグリゴリイは、自分が主人に対して、異論のないある勢力をもっていることを知っていた。そして彼がこう思ったのは、けっして思い違いではなかった。狡獪《こうかい》で片意地な道化者のフョードル・パーヴロヴィッチは、彼自身の言いぐさのように『世の中のある種の事柄に対しては』なかなかずぶとい気性を持っていたけれど、ある『別種な世の中の事柄』に対しては自分でも驚くほど、から意気地がなかった。それがどんな事柄であるかは、自身でも知っていて、いろいろなことに恐れをいだいていたのである。世の中には、ある種の事柄に対して、十分警戒しなければならない場合がある。そんなとき身辺に誰か忠実な人間がいなくては心細かったが、グリゴリイは忠実という点では無類な人間であった。フョードル・パーヴロヴィッチはこれまで世の中を渡る間にも、幾度となくなぐられそうな、しかもこっぴどくなぐられそうな場合にぶつかったこともよくあったが、そういうときには、いつもグリゴリイが彼を救い出した。もっともそのあとで毎回お説教を聞かせるのが常であったが。しかしフョードル・パーヴロヴィッチも、打ったりなぐったりされるだけなら、さして恐ろしくもなかったはずだが往々、極端な、ときにはむしろ複雑微妙な場合さえよくあったので、フョードル・パーヴロヴィッチは誰か忠実な人間を自分の身辺に置きたいというただならぬ要求を、突然不思議にも瞬間的に心に感じるのであった。しかも彼自身でさえ、その理由を明らかにすることはできなかった。それはほとんど病的といってもいい状態であった。放埒《ほうらつ》きわまりなく、しかもその淫欲のためにはしばしば、害悪な虫けらのように残忍非道なことをしてのけるフョードル・パーヴロヴィッチが、ときどき、酔っ払ったおりなどに、不意と心の中に精神的の恐怖と、非道徳的な震駭《しんがい》を感じるのであったが、それはほとんど生理的に彼の魂に反応した。『そんなときわしは、魂が咽喉《のど》の辺で震えておるような気持だ』彼はときにこんなことを言い言いした。こういう瞬間に彼は、自分に信服した、しっかりした男が自分の身近に、同じ部屋の中ではなくても、せめて傍屋《はなれ》のほうにでもいて欲しかった。その男は、けっして
前へ
次へ
全211ページ中66ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
ドストエフスキー フィヨードル・ミハイロヴィチ の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング