ト行くわが子の姿を見えなくなるまで、嘲笑《あざわら》うような顔つきで見送っていた。
「あいつはいったいどうしたというんだ?」と、彼はイワン・フョードロヴィッチの後ろからはいって来たスメルジャコフに向かって尋ねた。
「何かに腹を立てていらっしゃるのでしょうが、どうなすったのやら、さっぱりわかりませんよ」と、こちらは逃げ口上でこうつぶやいた。
「ええ勝手にしやがれ! 怒るやつには怒らしとくさ。おまえもサモワルを出しといて、さっさと出て行け、さあ早く、なんぞ変わった話はないのか?」
 そこで、今しがたスメルジャコフがイワン・フョードロヴィッチに哀訴したような、うるさい質問が始まった。つまり彼が待ちに待っている例の女客のことばかりであるから、それをここにくだくだしくくり返すことは避けよう。半時間の後には家はすっかり戸締まりができた。そして愛欲に取りのぼせた老人は、一人で部屋の中を歩き回って、約束の五つのノックの合い図が今にも聞こえぬかと、胸をわくわくさせて待ち構えながら、ときどき暗い窓の外をのぞいて見たが、『夜』のほかには何一つ眼にはいるものはなかった。
 もう非常に遅い時刻ではあったが、イワン・フョードロヴィッチはまだ眠らないで物思いにふけっていた。彼はこの夜たいへん遅く、二時過ぎに床についた。しかし、今は彼の思想の推移を細々と伝えることもよしておこう。それに今はそんな霊魂に立ち入っている時ではない。この霊魂についてはやがて語るべき順番がくるだろう。それに、たとえ今何かを読者に物語ろうとしてみたところで、それは非常にむずかしいこととなるに違いない。なぜならば、彼の頭の中にあるのは、思想と名づくべきものではなくて、何かしらひどく取りとめのない、しかも恐ろしく入り乱れたものであったからである。彼自身にも自分の心が、すっかり混乱してしまったような気がした。かてて加えて、奇態な、まるで思いもかけぬいろいろの欲望が目ざめて、彼を苦しめるのであった。たとえば、もう十二時を過ぎたような時刻なのに、突然、矢も楯《たて》もたまらず、階下へおりて扉をあけ放して傍屋《はなれ》へ行って、スメルジャコフを打ちのめしてやりたくなる、と言ったようなことであった。しかし、もし誰かにどういうわけでと聞かれたら、あの下男が憎らしくてたまらないのだ、この世にまたとないほどひどい侮辱を自分に加えたやつだ、という
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