オてこのほうがはるかに愛に近かったに違いない。つまり人間の負担も軽くて済んだわけだ。人間というものは弱くて卑しいものだ。今彼らはいたるところで、われわれの教権に反抗して、それを誇りとしているがそんなことはなんでもない。それは赤ん坊か小学生の自慢だ。それは教室で騒動を起こして、教師を追い出すちっぽけな子供なのだ。しかし今にそんな子供らしい喜びは終わりを告げて、それに対して彼らは高い支払いをしなければならない。彼らは寺院を破壊して地上に血を流すことだろう。しかし、結局はこの愚かな子供たちも、自分らは暴徒とはいっても、最後まで反抗を持続することのできない、いくじない暴徒にすぎないことを悟るだろう。やがては、愚かな涙を流しながら、自分たちを暴徒として創った者は、疑いもなく自分たちを冷笑するためだと自覚するだろう。彼らがこんなことを言いだすのは絶望に陥った時、そのことばは神を冒涜《ぼうとく》するものとなり、それによって彼らはいっそう不幸に陥るだろう。それは、人間の本性がとうてい、冒涜を耐え忍ぶことのできないもので、結局、自分で自分にその復讐《ふくしゅう》をするに決まっているからだ。かかるがゆえに、不安と惑乱と不幸と――これがおまえが彼らの自由のためにあれだけの苦しみを忍んだ後で彼らに与えられた、今の人間の運命なのだ! おまえの偉大なる予言者はその幻想と譬喩《ひゆ》の中で、最初の復活に参与したすべての人を見たが、その数はあらゆる種族を通じて一万二千人ずつあったといっておる。しかし、それほど多くの者がいたとしても、それは人間ではなくて神であったといってもいいくらいだ。彼らはおまえの十字架を耐え忍び、荒れ果てた不毛の広野の幾十年を、蝗《いなご》と草の根によって露命をつないできたのだから、もちろん、自由の子、自由な愛の子、おまえの名のために自由と偉大なる犠牲となった子として、大威張りでこれらの人々を指さすことができるだろう。しかし、考えてもみるがいい。それはわずか数千人の、しかも神ともいうべき人間だけである。あとの人間はどうなるのだ? そうした偉大な人々の耐え忍んだことを、他の弱い人間が同じように耐え忍ぶことができなかったからとて、彼らになんの罪があろう? そのような恐ろしい賜物を、受け入れることができなかったとて、弱い魂を責めるわけにはいくまい。それともおまえは、ただ選ばれたる者の
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