ト愛するというわけにはいかないもんだ。いや、こんなことはもうたくさんだ。ただ僕はおまえを僕の見地へ立たして見さえすればよかったんだ。僕は一般人類の苦悩について話したかったのだが、今はむしろ子供の苦悩だけにとどめておこう。これは僕の論拠を十分の一くらいに弱めてしまうけれど、しかしまあ、子供のことだけにしよう。これはもちろん、僕にとって不利益なんだけれどね。第一、子供はそばへ寄っても愛することができる。きたないやつでも器量のよくないやつでも愛することができる。(もっとも僕には器量のよくない子供というものはけっしていないように思われるんだがね)第二に、僕が大人のことを話したくない理由は、彼らが醜悪で愛に相当しないばかりでなく、彼らに対しては天罰というものがあるからだ。大人は知恵の実を食べて、善悪を知り、『神のごとく』なってしまった。そして今でも引き続きやはりその果実《このみ》を食べている。ところが子供はまだ何も食べないから、今のところまだ全く無垢《むく》なのだ。おまえは子供が好きかえ、アリョーシャ? わかってるよ、好きなのさ。だからいま僕がどういうわけで子供のことばかり話そうとするか、おまえにはちゃんと察しがつくだろうよ。で、もし、子供までが同じように地上で恐ろしい苦しみを受けるとすれば、それはもちろん、自分の父親の身代わりだ、知恵の実を食べた父親の身代わりに罰せられるんだ――でも、これはあの世[#「あの世」に傍点]の人の考え方で、この地上に住む人間の心には不可解だ。罪なき者が、他人の代わりに苦しむなんて法はないじゃないか。まして罪なき子供が! こう言ったら驚くかもしれないがね、アリョーシャ、僕もやはり子供が好きでたまらないんだよ。それに注目すべきことは、残酷で情欲や肉欲の旺盛なカラマゾフ的人物が、どうかすると非常に子供を好くものだよ。子供が本当に子供でいるあいだ、つまり七つくらいまでの子供は、おそろしく人間ばなれがしていて、まるで別な性情を持った別な生き物の観があるよ……。僕は監獄へはいっている一人の強盗を知っているが、その男は商売のために、毎晩毎晩あちこちの家へ強盗にはいって、一家族をみなごろしにするようなこともよくあるし、時には一時に幾人もの子供を斬り殺すような場合もあった。ところが、監獄へはいっているうちに、奇態なくらいに子供が好きになったのだ。やつは獄窓から庭に
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