ある。自分はすでに前に述べたところを、いま一度くり返すまでであるが、――彼がこの道へ踏みこんだのは、当時ただこれのみが彼の心を撃ち、闇の中から光明を目ざして驀進《ばくしん》する彼の心霊に対する究極の理想として映じたからにほかならない。それにいまひとつ、半面において彼がわが国の近代的青年であったことを付け加えればいい。つまり、天性潔白で、真理を探求し、ついにそれを信じるに至ったのであるが、いったんそれを信じたうえは、己《おの》が心魂を傾けて一刻の猶予もなくこれに馳《は》せ参じて、少しも早く功績を立てたい、しかもその功績のためにはいっさいの物を、命さえも犠牲にすることを辞さないという、必死な希望にかられていたのである。とはいえ、不幸にして、こうした青年たちには、生命の犠牲はこういう場合、他のいかなる犠牲よりも、最も容易なものだということがわからないのである。たとえば、みずからそれに打ちこんで、その完成を心に期している同じ真理なり、功名なりに奉仕する力を増すだけにでも、青春の血に燃ゆる自己の生活から五年、六年を割《さ》いて、むずかしいやっかいな勉強のため、学問のための犠牲にするという――こうした不断の努力が、多くの青年にとってはほとんど全く耐えられないのである。アリョーシャはただ、人と正反対の道を取っただけで、一時も早く功績を立てたいと思う熱望に変わりはなかった。真剣になって思索した結果、不死と神とは存在するという信念に心を打たれると同時に、きわめて自然にこう口走った。『不死のために生きたい。中途半端な妥協はとるまい』これと同じく、もしも彼が不死や神は存在しないと決めた場合には、彼はたちまち無神論者や社会主義者の中へはいって行ったに違いない(なぜかといえば、社会主義は単なる労働問題、またはいわゆる第四階級の問題であるばかりでなく、主として無神論の問題である。無神論に現代的な肉付けを施した問題である。地上から天に達するためではなく、天を地上へ引きおろすために、神なくして建てられつつあるバビロンの塔であるから)。アリョーシャにはこれまでどおりの生活をするのが、奇怪で不可能なことにすら思われた。聖書にも、『もし完《まっ》たからんと欲せば、すべての財宝を頒《わか》ちてわれの後より来たれ』と言ってある。で、アリョーシャは心につぶやいた。『自分は「すべて」の代わりに、弥撒《ミサ》へだ
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