zがなかった。それどころか、まるでこの婦人《ひと》の助言でも当てにしているように、自分から進んで、彼女のもとをさして急ぐのであった。だが、彼女に伝言を伝えることが、明らかに先刻よりいっそう、心苦しいように思われた。三千ルーブルの問題がきっぱりと決定してしまったから、兄ドミトリイはもはや自分を不正直者と決めてしまって、絶望のあまり、どんな堕落の淵《ふち》へも躊躇《ちゅうちょ》なく飛びこむに違いない。それに、兄は、たったいま突発した事件を、カテリーナ・イワーノヴナに伝えてくれと言いつけている……。
 アリョーシャがカテリーナ・イワーノヴナの住まいへはいったのはもう七時ごろで、薄暮の色がかなり濃くなっていた。彼女は大通りに面した非常に手広で、便利な家を一軒借りていた。彼女が二人の伯母と同棲《どうせい》していることはアリョーシャも知っていた。その一方の伯母というのは、姉のアガーフィヤだけの伯母に当たっていた。これは彼女が女学院から父の家へ戻って来たとき、姉とともにいろいろ世話をしてくれた、例の無口な女であった。もう一人の伯母は、貧しい生まれでありながらおつにすましてもったいぶった、モスクワの貴婦人である。人の噂《うわさ》では、この伯母たちは二人とも万事につけて、カテリーナ・イワーノヴナの言うがままになって、ただ世間体のためにのみ姪《めい》に付き添っているだけであった。カテリーナ・イワーノヴナが信服していたのは、今、病気のためにモスクワに残っている恩人の将軍夫人だけであった。彼女はこの人に毎週二通ずつ手紙を書いて、自分のことを詳しく知らせてやらなければならなかった。
 アリョーシャが玄関へはいって、扉をあけてくれた小間使いに、自分の来訪を取り次いでくれるように頼んだとき、広間のほうでは確かに彼の来たことをもう知っているらしかった(ことによったら、窓からでも彼の姿を見つけたのだろう)。と、急に、何かどやどやと騒々しい物音がして、誰か女の駆け出す足音や、さらさらいう衣ずれの音などが聞こえてきた。どうやら二、三人の女が駆け出したらしい気配である。アリョーシャは自分の来訪がどうしてこんなに騒ぎを引き起こしたものだろうと、奇異に感じた。しかし、彼はすぐ広間へ通された。それは少しも田舎臭《いなかくさ》くない、優雅な家具調度で豊かに飾りつけられた、大きな部屋であった。長椅子や大小のテーブル
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