をもってしても、いつも貧しい暮らしをして不仕合わせな境遇にある、この国のおびただしい男女学生に比べて、実際的にも知的にも断然頭角をあらわしていた。両都の学生たちは、たいてい朝から晩まで、各種の新聞雑誌の編集室へ、お百度を踏みながら、相も変わらぬ仏文の翻訳だとか筆耕の口だとかを、あとからあとからと懇願する以外には、なんのいい思案も浮かばないのである。あちこちの編集部と近づきになると、イワン・フョードロヴィッチはその後も、ずっと関係を絶たずに、大学を終わるころにはいろんな専門的な書物に関するきわめて才能のある批評を掲載し始めたため、文学者仲間のあいだにまで有名になった。もっとも、偶然にも彼がずっと広範囲の読書に特別な注意をよび起こして、非常に多くの人から一時に認められ、記憶されるようになったのは、つい最近のことである。それはかなりに興味のある出来事であった。すでに大学を卒業して、例の二千ルーブルの金で外国行きを企てているうちに、イワン・フョードロヴィッチは突然ある大新聞に一つの奇妙な論文を載せて、専門外の人の注意まで引いたのであるが、なかんずくその題材が博物科を卒業した彼にとっては全く縁のなさそうなものであった。その論文は、そのころあちこちで論議されていた教会裁判問題に対して書かれたものである。すでにこの問題について公けにされた幾つかの意見を検討してから、彼は自分自身の見解を発表した。重要な点は文章の調子と、全く人の意表に出たその結論とにあった。ところで、教会派の大多数は断然彼を目して自党と確信したが、それと同時に公民権論者のみならず無神論者までがいっしょになって、各自の立場から、やんやと喝采《かっさい》し始めた。が、つまるところ、具眼の士はこの論文は、単に大胆不敵の俄狂言《にわかきょうげん》であり嘲弄《ちょうろう》にすぎないと断定した。このいきさつを特に紹介しておくのは、そのころもちあがった教会裁判問題について一般的な興味を持っていた、この町の郊外にある有名な修道院でも、たまたまこの論文が問題になって、非常な疑惑をよび起こしていたからである。さて筆者の名がわかって、それがこの町の出身者で、しかも『あのほかならぬフョードル・パーヴロヴィッチの息子である』ということがまた人々の興味を引くのであった。ところがちょうどそのころ、ひょっくりこの町へ当の筆者が姿を現わした。
 な
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