かったのだ。ただ軍刀に接吻しただけで、また元の鞘《さや》に納めた。が、こんなことはおまえに話す必要はなかったんだ。それに今ああいう争闘の話をしながら、自分をいい子に見せようと思って、少しはごまかしもあるようだ。しかしそれはどうだってかまわない。ほんとに人間の心の間諜《かんちょう》なんてものが、みんなどこかへ消えてなくなりゃあいいんだ! さあ、これがおれとカテリーナ・イワーノヴナとのあいだにあった『事件』の全部なんだよ。今ではこれを知っているのはイワンと、それにおまえだけなんだ」
ドミトリイ・フョードロヴィッチは立ち上がると、興奮しながら一、二歩足を踏み出した。そしてハンカチを取り出して額の汗を拭《ぬぐ》った。それから再び腰をおろしたが、それは前に坐っていたところでなく、反対側の壁ぎわの床几《しょうぎ》であった。だからアリョーシャは、すっかり坐りなおして兄のほうを向かなければならなかった。
五 熱烈なる心の懺悔――『まっさかさま』
「ではこれで」とアリョーシャが言った。「僕もこの話の前半を知ったわけなんです」
「ね、前半だけはおまえにもわかったわけだ。それはただの戯曲《ドラマ》で、あちらで上演ずみだ。後半は悲劇で、これから当地で演じられようとしているのさ」
「その後半については、これまで少しも僕にわかっていないんです」とアリョーシャが言った。
「じゃあ、おれはどうだい? おれにはわかってるとでも言うのかい?」
「ちょっと待って、兄さん、ここに一つ大切なことばがあるんです。聞かせてください、いったい兄さんは許婚《いいなずけ》なんですか、今でも許婚なんですか?」
「おれが許婚になったのはすぐじゃない、あの事件の後、三月たってからだ。あのことがあったすぐあくる日おれは自分で自分に言って聞かせた――この事件はすっかりこれでおしまいだ、けっして続きなんかないとね、結婚の申しこみに出かけるなんて、卑劣だとおれは思ったのだ。あの女はまたあの女で、その後六週間もその町に滞在していたのに、一言半句の便りもよこさなかったのだ。もっともあとにもさきにもただ一度きり、あの女がおれを訪問した、そのあくる日のことだが、あの家の女中が、こっそりおれのところへ来て、何も言わずに紙包みを一つ置いて行ったのだ。その包みには何々様と当て名が書いてある。あけて見ると、五千ルーブルの手形のつり銭な
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