あくる日はすっかり酔いがさめて、自分のこわした碗や皿を惜しがったものだ。だからアリョーシャは、老父も明日になったら自分を修道院へ返してくれる、いや今日にも返してくれるかもしれぬことを見抜いていた。それに彼は父が、他の者ならともかく、自分を侮辱《ぶじょく》しようなどと考えるはずがないと、固く信じていた。彼は世の中に誰ひとり、自分を侮辱しようとするものはない、否、侮辱しようとする者がないばかりか、侮辱しうる者がないと信じていた。これは理屈なしに断然、彼の心に決定している公理であった。この意味で彼は、なんらの動揺もなしに前進することができたのである。
 しかしこの時、彼の心中には、全く種類を異にしたある別の疑懼《ぎく》の念が蠢動《しゅんどう》していた。しかも自分ではっきりとそれを把握することができないために、それはいっそう悩ましく感ぜられるのであった。それはまさしく女性に対する恐怖であった。つまりさきほどホフラーコワ夫人から渡された手紙で、何か用事があるからぜひ来てもらいたいと、しつこく頼んでよこした、かのカテリーナ・イワーノヴナに対する恐怖であった。この要求と、そこにぜひ行かねばならぬことが、たちまち彼の胸に何か妙に悩ましい感じを起こさせたのである。そして修道院内で相次いで起こったいろいろの事件や、今また院長のもとで演ぜられた醜態などにもかかわらず、この感じは午前中を通して、しだいしだいに悩ましさを増して彼の心を疼《うず》かせていったのである。
 彼が恐れたのは、カテリーナ・イワーノヴナが何を言いだすか、またそれに対してこっちからなんと答えたものか、そんなことがわからないためではなかった。また一般的に女としての彼女を恐れたわけでもなかった。いうまでもなく、彼は女というものをあまり知らなかったが、しかしそうは言っても、ほんの幼少のころから、修道院へはいるすぐ前まで、ずっと女のあいだばかりで暮らしているのだ。彼が恐れていたのはまさしくこの、カテリーナ・イワーノヴナという女なのである。そもそもはじめて会ったその時からして、彼にはこの女が恐ろしかったのである。もっとも、この女に会ったのはほんの一度か二度、あるいは三度くらいなものである。しかしいつか何かの拍子で、二言、三言ことばをかわしたことがあった。彼女の姿は、美しく誇らかで威厳の備わった娘として彼の記憶に残っていた。しかし彼
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