おる)、憎悪ばかりでなくおのが同胞たる犯人の将来の運命に関する極度の無関心と忘却が伴うのじゃ。こういうありさまで、一事が万事教会側のいささかの憐愍《れんびん》もなしに取り行なわれる。それというのも多くの場合、外国には教会というものが全然なくなって、職業的な牧師と、壮麗な会堂の建物が残っておるにすぎぬからじゃ。教会そのものはとうの昔に、教会という下級の形から、国家という上級の形へ移るのにきゅうきゅうたるありさまで、やがては国家というものの中へ、すっかり姿を没してしまおうとしておるのじゃ。少なくともルーテル派の国々では、そのように思われる。ローマに至っては、もう千年このかた、教会に代わって国家が高唱されておる。それゆえ、犯人自身も教会の一員という自覚がないので、追放に処せられると絶望のどん底に投げこまれてしまうのじゃ。たとえ社会へ復帰することがあっても、しばしば非常な憎悪をいだいて帰るため、社会そのものが自分で自分を追放するようなことになってしまうのじゃ。これがどういう結果に終わるかは、御自身で御判断がつきましょう。わが国においても、だいたいこれと同じありさまのように思われなくもないのじゃが、ここに異なるところは、わが国には国法で定められた裁判の他に教会というものがあって、なんといってもやはり可愛い大切な息子じゃ、という風に犯罪者を眺めて、いついかなる場合にも交渉を断たぬことにしておる。なおそのうえに、思想的なもので、今は実際的なものでないにしても、未来のためにたとえ空想の中にでも生きている教会裁判なるものが保存されておって、これが疑いなく犯人によって本能的に認められておるのじゃ。ただいまのお話もまことにもっともなことですじゃ。つまり、もし教会裁判が実現されて、完全な力を行使する時が来たなら、すなわち全社会が教会そのものになってしまったならば、単に社会が罪人の匡正《きょうせい》に、かつてそのためしのなかった影響を及ぼすばかりでなく、事実、犯罪そのものの数も異常なる割合をもって減少するじゃろう。疑いもなく教会は未来の犯罪者ならびに未来の犯罪をば、多くの場合、今とはまるで別な目をもって見るに至るじゃろう。そして追放された者を呼び戻し、悪だくみをいだく者を未然にいましめ、堕落した者を更正させることができるに違いない。実のところ、」とここで長老は微笑を浮かべた。「いまキリスト教
前へ 次へ
全422ページ中90ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
ドストエフスキー フィヨードル・ミハイロヴィチ の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング