轤ナある。帝は度々幼年学校へ行幸せられた。背の高い胸の広い体格で、八字髯と、短く苅込んだ頬髯との上に鷲の嘴のやうに曲つた隆い鼻のある帝は、さう云ふ時巌丈な歩き付きをして臨場して、遠くまで響く声で生徒等に挨拶せられた。さう云ふ事のある度に、ステパンはなんとも云へぬ感奮の情を発した。後に人と成つてから、自分の愛する女を見て発する情と同じやうな感奮であつた。否、ステパンが帝に対して懐いてゐた熱情は、後に女に対して感じた情よりは遙に強かつた。どうにかして際限もない尊信の思想が帝に見せて上げたい。何か機会があつたら、帝の為めに何物をでも犠牲にしたい、一命をも捧げたいと思つてゐたのである。帝はこの青年の心持を知つて、わざとその情を煽るやうな言動をせられた。いつも帝は幼年学校で生徒に交つて遊戯をして、生徒の真ん中に立つてゐて、子供らしい、無邪気な事を言つたり、又友達のやうに親切な事を言つたり、又改まつて晴れがましい事を言つたりせられた。ステパンが例の士官を打擲した事件の後に、帝は幼年学校に臨校せられたが、ステパンを見てもなんとも言はずにゐられた。さてステパンが偶然帝の側に来た時、帝は舞台で俳優のするやうな手附をして、ステパンを自分の側から押し除けて、額に皺を寄せて、右の手の指を立てゝ、威《おど》すやうな真似をせられた。それから還御《くわんぎよ》になる時、ステパンに言はれた。「覚えてゐるのだぞ。己は何もかも知つてゐる。併し或る事件は己は決して口に出さない。併しこゝにしまつてあるぞ。」帝はかう云つて胸を指さゝれた。
 ステパンが組の生徒が卒業して、一同帝の前に出た時、帝はステパンの例の事件を忘れたやうに言ひ出さずにゐた。そしていつものやうに、一同に訓示をした。何事があつてもこれからは直接に己に言へ、己とロシアの本国との為めに忠実に働け、己はいつでもお前達の親友であるぞと言つたのである。一同感激した。中にもステパンは自分の失錯の事を思つて、涙を流して、この難有い帝に一身を捧げて勤めようと心に誓つた。
 ステパンが聯隊附になつた時、母は娘を連れてまづモスクワに移つて次いで田舎に引つ込んだ。その時ステパンは財産の半ばを割《さ》いて女きやうだいに遣つた。自分が手元に残して置いた財産は、贅沢な近衛聯隊に勤める入費を支払つて一銭も残らぬだけの金額に過ぎなかつた。
 ステパンと云ふ男は余所目《よそめ》には普通の立派な青年近衛士官で、専念に立身を望んでゐるものとしか見えない。併しその腹の中に立ち入つて見ると、非常に複雑な、緊張した思慮をめぐらしてゐる。その思つてゐる事は子供の時から種々に変化したやうである。それは真に変化したのではない。煎じ詰めて見れば只一つの方針になる。即ち何事に依らず完全に為遂《しと》げて、衆人の賞讃と驚歎とを博せようとするのである。例之《たとへ》ば学科は人に褒められ、模範とせられるまで勉強する。さてその目的を達してしまふと、何か外の方角へ手を出すのである。そんな風で、幼年学校にゐた間、あらゆる学科の最優等生になつてゐた。その頃フランス語の会話が只一つ不得手《ふえて》であつた。そこで非常にフランス語を研究して、とう/\ロシア語と同じやうにフランス語を話すことが出来るまでに為上げた。遊戯の中で将棋なども、習ひ始めてからは、生徒仲間で一番に成るまで息《や》めなかつた。
 此男が士官になつてからは、本務上陛下に仕へ本国の為めに勤務するのは無論である。併しその外にいつも何か一為事《ひとしごと》始めてゐる。然もその副業に全幅の精神を傾注して成功するまでは息めない。どんな詰まらぬ事にもせよ、此流義で為遂げる。そこで其事が成就してしまふと、直ぐにそれを擲《なげう》つて、何か新しい方角に向つて進む。兎に角或る事件を企てる、それを成功して人を凌駕しようとする精神がこの男を支配してゐる。最初に聯隊に這入つた時、ステパンは一つこの勤務と云ふものを飽くまで研究しようと思つた。そこでステパンは間もなく聯隊中の模範将校になつた。併し惜しい事には例の激怒がどうかすると発する。そこで勤務上にも考科に疵を付けるやうな不都合の出来る事があつた。
 ステパンは後に上流社会で交際するやうになつてから自分の普通教育の足りない事に気が付いた。そこでその穴埋をしようと思つて、すぐに種々の書物を買ひ込んだ。そして間もなく目的を達した。次いで交際社会で立派な地位を占めようと思つた。そこで舞踏の稽古をして上手になつた。上流社会で舞踏会や夜会を催す事があると、ステパンはきつと請待《しやうだい》せられる事になつた。ところがそれまでになつたステパンの心中には満足の出来ない事があつた。それはどこへ往つても第一の地位を占めようと思つてゐるのに、実際は中々それどころではなかつたからである。
 その頃の上
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