る。背の高いステパンは、娘の前に衝つ立つて、両手で軍刀の柄《つか》を押へてゐるのである。
ステパンは恥かしげに微笑みながら云つた。「わたしは今になつて始めて人間と云ふものゝ受けられる幸福の全範囲が分つたのですね。」夫婦の約束をしてから暫くの間は、もうぞんざいな詞《ことば》を使ふ権利がありながら、まだそれを敢てしないものである。ステパンは今その時期になつてゐて、マリイを尊《たつと》いものゝやうに見上げてゐるので、その天使のやうな処女《をとめ》にお前なんぞと云ふ事は出来にくいのである。ステパンはやうやうの事で語を次いだ。「どうもお前のお蔭でわたしは自己と云ふものが分つたのだね。さて分つて見れば、わたしは最初一人で考へてゐたより、余程善良なのだね。」
「あら。わたくしの方ではそれがとうから分つてゐましたの。だからわたくしあなたが好になつたのでございますわ」
すぐ側でルスチニア鳥が一声啼いた。そして若葉が風にそよいでゐる。
ステパンはマリイの手を取つてそれに接吻した。その時目には涙が湧いて来た。
これはあなたが好になつたと云つた礼だと云ふ事を、マリイは悟つた。
ステパンは黙つて二三歩の間を往つたり来たりしたが、さてマリイの側に腰を掛けた。「あなたには、いや、お前には分つてゐるだらうね。もうかうなつてしまへばどうでも好いのだ。実はわたしがお前に接近したのはどうも利己主義ではなかつたとは云はれない。なぜと云ふにわたしは上流社会に聯絡を付けようと思つて、交際を求めたのだからね。併し暫く立つとわたしの心持は一変した。そんな目的なんぞはお前と云ふものを手に入れる事に比べるとなんでもなくなつた。それはお前の人柄が分つて来たので、さう云ふ心持になつたのだ。ねえ、さう云ふわけだからと云つて、わたしの事を悪く思つてはくれないだらうね。」
マリイはそれにはなんの返事もせずに、そつとステパンの手を握つた。
詞で言つたら、「いゝえ、悪くなんぞは思ひません」と云つたのと同じだと云ふ事が、ステパンに分つた。
「さう。今お前が云つたつけね。」ステパンはかう云ひ掛けたが、ちと言ひ過ぎはせぬかと思つたので、ちよつとためらつた。「お前はわたしが好になつたと云つたつけね。それはさうだらうかとわたしも思つてゐる。だがね、おこつては行けないよ、さう云ふお前の感情の外に、まだお前とわたしとの間に何者かゞあつて、それが二人の中の邪魔にもなるし、又お前に不安を覚えさせてゐるらしく、わたしには見えるがね。あれは一体なんだらうね。」
此詞を聞いた時、打ち明ければ今だ。今言はずにしまへば、言ふ時がないと云ふ事が女の意識を掠めて過ぎた。女は思案した。「どうせ自分が黙つてゐたつて、此事が夫の耳に入《い》らずには済まない。もうかうなつて見れば、打ち明けたところで、此人に棄てられる気遣はない。併しこれまでになつたのは、ほんに嬉しい。若し此人に棄てられる事があるやうでは、わたしに取つては大変だから」と思案した。そして優しい目附でステパンが姿を見た。背の高い立派な巌丈な体である。女は今では此男を帝よりも愛してゐる。若しそれが帝でなかつたら、十人位此男の代りに人にくれて遣つても好いと思つてゐる。そこでかう言ひ出した。「あなたにお話いたして置かなくてはならないのでございますがね。わたくしあなたに隠し立をいたしては済みませんから。わたくし何もかも言つてしまひますわ。どんな事を言ふのだとお思ひなさいませうね。実はわたくし一度恋をしたことがございますの。」かう云つて女は又自分の手をステパンの手の上に載せて歎願するやうに顔を見た。
ステパンは黙つてゐた。
「あなた相手は誰だとお思ひなさいますの。あの陛下でございます。」
「それは陛下を愛すると云ふことは、あなたにしろわたし共にしろ、皆してゐるのです。女学校にお出の時の話でせう。」
「いゝえ、それより後の事でございます。無論只|空《くう》にお慕ひ申してゐたので、暫く立つと、なんでもなくなつてしまひましたのですが、お話いたして置かなくてはならないのは。」
「そこで。」
「いゝえ。それが只プラトオニツクマンにお慕ひ申したと云ふばかりではございませんでしたから。」
言ひ放つて、女は両手で顔を隠した。
「なんですと。あなた身をお任せになつたのですか。」
女は黙つてゐた。
ステパンは跳り上つた。顔の色は真つ蒼になつて表情筋《へうじやうきん》の痙攣を起してゐる。此時ステパンが思ひ出したのはネウスキイで帝に拝謁した時、帝が此女と自分との約束が出来たのを聞かれて、ひどく喜ばしげに祝詞を述べられたことである。
「あゝ。ステパンさん。わたくしは飛んだ事を申し上げましたね。」
「どうぞもうわたくしに障《さは》らないで下さい。障らないで下さい。あゝ。実になんとも
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