己は御身に警告せずして罷《や》むに忍びない。己の次は御身だ。危険が御身に及ぶと云ふことは、この珍らしい娘の目の中で己が読んだ。己が此危険を御身に予告するのは、己が嘗て御身に禍を遺した罪を贖《あがな》ふ所以《ゆゐん》である。
 此予測は或は御身が思ふ程|厭《いと》ふべき事では無いかも知れない。今からは目に視えぬ脅迫が御身の頭上に垂れ懸かつてゐる。併し今から後御身が一切の受用に臨んで、一層身を入れて一層熱烈にこれを享《う》けるのは、此脅迫の賜ものであらう。青年は兎角何事をも明日に譲つて恬然《てんぜん》としてゐたがる。御身のこれまでの快楽には必要な刺《とげ》が無かつた。己は其刺を御身に貽《おく》るのだ。御身は己に感謝しても好からう。さらばよ。我指はもう拘攣して来た。老いたるバルヂピエロは恐らくは今晩最終の一杯を傾けたのだらう。」

     三

 評議官の手紙の中で言つてゐることは吾を欺かなかつた。此手紙を読んだ日から己の心の内には新しい感じが生じた。此精神状態はこれまで夢にも見たことの無い状態である。手紙によれば己の性命を覗ふものがある。少くも心の内では、己の玉の緒を絶たうと企ててゐるものがある。これまでは己の死ぬる時刻を極めるのは自然そのものであつたが、もうこれからは自然が単独にそれを極めることは出来ない。或る一人の人が己の性命の時計の鍼《はり》を前へ進めることを自分の特別な任務にしてゐるのである。その人のためには己の死が偶然の出来事では無くて、一の願はしい、殊更に贏《か》ち得た恩恵である。此人の手に偶然の出来事がいつ己の性命を委ねてしまふか知れない。そればかりでは無い。この目に見えぬ脅迫を避けようとか、この作用を防遏《ばうあつ》しようとか云ふ手段は、毫も己の手中には無い。己の只生きてゐると云ふ丈の事実が、己を迫害の目的物にするのである。
 まあ、なんと云ふ事態の変りやうであらう。己はこれまで謂《い》はば総ての人の同意を得て生きてゐた。己の周囲には己を援助して生を聊《いささか》せしめてくれようと云ふ合意が成立してゐた。己を取り巻いてゐる総ての人が此問題のために力を借してくれてゐた。生活と云ふものの驚歎に値する資料を己に供給しようとして、知るも知らぬも、直接又間接に、幾たりの人かが働いてゐた。己の食ふパンを焼うとして小麦粉を捏《こ》ねてゐたパン屋も、己の着る衣類を縫つてゐた為立物師も、己にそのパンを食はせよう、その衣類を着せようと云ふより外には、何等の欲望をも目的をも有してゐなかつた。己のために穀物が収穫せられ、己のために葡萄が醸造場の桶に投ぜられた。その外人一人を生きてゐさせるために働いてゐる工匠の数を誰が数へ挙げることが出来よう。人間と云ふものは幾多の労作の形づくつてゐる圏線《けんせん》の中心点に立つてゐる。併しそれは皆人生の必要品ばかりを言つたのである。若し更に進んで贅沢物に移つて見たら、どうだらう。理髪師と踊の師匠は、丁度外の工匠が己のために必要品を供給してくれるやうに、己に粧飾や消遣《せうけん》を寄与してゐるではないか。謂はば己は一切の人間の共同して造り上げてゐた製作物であつたのだ。又不幸にして己が或る災難に出合つたとすると、すぐに医者や薬剤師が現れて来て、創や病気の経過を整へてくれ、悪い転帰《てんき》を取らせぬやうに防ぎ止めてくれた。全体人体の構造を窮め知つて、自然の次第に破壊して行く力を遮り留めるやうにするのは、決して容易な業では無いのだ。
 約《つゞ》めて言へば、人間が孤立してゐて、只自己のためにばかり警戒し憂慮してゐたら、必然陥いる筈になつてゐる危険と疲労とを、或る程度まで周囲のあらゆる人間が抑留してくれて、己はその恩沢を蒙つて生きてゐたのだ。世間は己の需要を予測して、潤沢に己に属※[#「上部「厭」+下部「食」」、第4水準2−92−73、101−上−16]《しよくえん》させてくれた。世間は己の活動して行くに都合の好い丈の意欲を己に起させてくれた。然るに今や忽然《こつぜん》として或る未知の女が現れて来て、この一切の好意に反抗しようとする。そいつは啻《たゞ》に周囲の援助を妨礙《ばうがい》しようとするばかりでは無い。却つて反対の方向に働かうとする。そいつは公々然として己の敵だと名告《なの》る。そいつは個個の善意の団体を離れて、独立して働く。そいつの意志の要求する所のものは何か。答へて曰く。己の死である。なぜ己の死を欲するか。答へて曰く。己に侮辱せられた報酬である。併しその侮辱は己が故意に加へたのでは無い。第三者の盲目なる器械となつて、期せずして加へたに過ぎない。それに或る未知の女は己の死を欲する。想ふにそいつは必ず目的を達することだらう。事によつたら明日己を殺すかも知れない。己がその女の名も知らず顔も知らぬのだから、
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