はいろいろのことを感じた。上海は何という不可思議なところなのであろう。街の裏と表とではまるで地獄と極楽とが腹合せになっているというようなところである。
 それから大金持と乞食とがまるでごった返しているのである。にぎやかな街には幾つも露地のような細い横筋の小さな通りがある。そこにはごたごたとした小さな食物の店がある。その家々に支那人が代わり代わり腰をかけて、油っこいものを、さもおいしそうに青天井の下でたべている。軒もひさしもない青天井の下ではさぞかし塵埃もおちて来ようと私にはおもえた。しかし支那人たちはそんなことには一向平気で、さもさもおいしそうにたべているのである。そこを一歩奥の方へはいり込むと、何とおどろくべきことか、まるで乞食の巣のような一種名状すべからざる怪奇なところがあり、うす気味悪い戦慄がおもわず肌を走るのをおぼえる。そこにはどんな深刻な犯罪があるかも知れない。どんな秘密がたくらまれているかも知れない。そういう印象を与える。
 お天気の日には、ごみごみとした悪臭のするところに腰をかけて、のんびりした顔をしてしらみを取っているものがある。何の恥辱もなく、何の不安もなく、あたりまえの顔をしてやっている。のん気な底知れぬ沼のような怪奇さがただようている。そこの外のところに大きな賭博場が二つあり、インテリや金持ちなどが集まるところと、またいまひとつは無頼漢などがあつまって賭博に来るところがあるということであった。それをみせてあげるという話であったが、インテリのも無頼漢の方もどちらもみられなかった。しかしそういう怪奇な家の表を通って来たのであったが、仏租界はそんなに危険ではないらしいという話であったので、毎日大抵租界のしきりを越えてゆくのであった。

 私は自動車のちょうど真中あたりに座をしめていた。そして私の両側に同行の人がのっていた。もう一台の方は男の人たちが乗っていた。二台ずつで毎日市中をみて歩いていたのであった。翌日、自動車でゆくと、大へんな雑|閙《とう》があり、そういうところに何ということであろう餓死人が倒れたまま放っておいてあるのだった。私はそれを何ということもなくとっくりとみていたかったが、歩いていると、それはただそれだけではなしに、実はそこにもここにもといったぐあい[#「ぐあい」は底本では「ぐあいい」]にあるのであって、誰も私のように物珍しくみている
前へ 次へ
全17ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
上村 松園 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング