に限らず、すべての浮世絵作家の筆は、錦絵に比べて、ずっとサバけたものでして、色彩なども錦絵のもつ、あんな妍雅《けんが》な味わいがないようで、いったいに堅い気持に受けとれるのでした。

 ですから、錦絵を見た眼で肉筆を見ると、とんと何か勝手が違うような気持にならされて、「まあ、これが春信かいなア、歌麿かいなア」と眺められるほどです。恐らくその作家たちだって、あの当時、御自分たちの描いたものがりっぱな錦絵になって、美しく出来上った時のを見るたびに「やあ、これはえろう佳《よ》くなったものだナ」と微苦笑というものを、禁じ得なかったことでございましょう。

 それほど、肉筆と錦絵の間には、相違があると私は感じました。もっとも何もかもそうだと申し切るわけではありませんが、まず大ようにそんな気持がされました。しかし中にはなかなか傑出したものもありまして、葛飾北斎《かつしかほくさい》のものなどは、版画物にさえまで劣らぬ調子のいいのがあったようです。中には竹内栖鳳先生の御出品だと思います、北斎筆の、鏡の前の女などは、その筆致と申し色彩と申し、強い調子の中に一種のなれた柔かみがあって、なんとも言えない佳品であったと思います。

     ○

 兎に角、春信以下、たいていは錦絵の方が肉筆よりも一段上だと思われました。ですから自然、錦絵の価値と申すものは、作家その人の手腕にばかり帰してしまうわけには参りかねるのじゃないでしょうか。あの彫りの巧《うま》さ、刷り上げの巧さ、そういうものが重なり重なりして、あの纒まった芸術品が出来上るのですから、私は作家のみならず、そういう工人たちにも多くの手柄があるのだろうと考えております。

 肉筆で見ますと、筆の調子は、あんなにまで暢《の》びた、繊細な美しさを有《も》っているようにはありません。もっと堅い感じのものが多いのですが、それが錦絵になりますと、とても暢び暢びとした、繊巧《せんこう》なものになっております。これなどは確かに、彫工の水際立った手際が、線条をあれまでに活かして柔げたものであろうという判断が下されます。

 次に色彩ですが、これなども錦絵の方が、ずっと優雅な味のある深みのある、風韻《ふういん》のあるものになっています。これはむろん刷工《すりこう》の優れた手際と、それに感じの巧みな点に帰せなくてはならないかと思うのです。

 こんなわけで
前へ 次へ
全3ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
上村 松園 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング