に横山大観先生の楠公が納まっているのである。
 私は一日も早く夫人の像を納めたいとあせるのであるが、楠公夫人のお顔がどうしても想像出来ないのであった。

 ところが去年の春、以前私のお弟子さんであった女流の画人で、河内生まれの方がひょっこり訪ねて来て、談たまたま楠公夫人の話が出た折り、そのお弟子さんは、
「楠公夫人は、代表的な河内型のお顔であったという言いつたえが残っています」
 と教えてくれた。

 一体どういう顔立ちが河内型なのか私には一向見当がつかなかった。
「今でもたまには、その河内型の女性が残っているそうですから、発見したらおしらせします」
 そう言って私のお弟子さんは帰って行ったが、しばらくすると、
「とても美人の河内型をみつけましたからお出でになりませんか」
 と、いう手紙が来た。
 私は急いで、筆と紙を持つと、その日河内の国へ発った。

 甘南備の里の某家の若妻であった。
 面長の色の白い品のいい顔立ちの婦人であった。
 私がスケッチを頼むと、その婦人は私の目的を知らないので、何かてれくさいような容子をしていられたが、私のお弟子さんが、うまくとりなしてくれて、ようやくスケッチすることが出来た。
 私は青葉もれの陽の下で、みどりの陽光がその白い顔を染めている上品なつつましやかな婦人の姿を写しながら、ときどきこの婦人にむかしの衣装を想像の上で着けてみ、楠公夫人のみ姿を心の中で描いてみた。
 スケッチがすむと私は夫人ゆかりの観心寺その他を一巡して往時を偲んだ。

 もう一年にもなるが、私の楠公夫人はまだ下絵を描くところにまでも運んでいない。忙しい中に暇を見つけては、私は夫人の伝記や夫人に関する記事を漁っている。
 偉大なる日本の母、楠公夫人を描くのは私にとってはなかなかの重荷である。しかし描き上げた以上は、それこそ末代までも間違いを発見されない完全な夫人を描こうと念願しているのである。

 湊川神社へ楠公夫人を描いて納めるとなると、私はもうひとつ納めなくてはならぬところを感じるのである。
 それは京都嵯峨の奥なる、小楠公の首塚のある宝篋院である。
 弁内侍と正行公との、美しくも哀しい物語を憶い出す。
 私は嵯峨宝篋院へも、楠公夫人が一子正行に忠孝の道を説いている教訓的な絵を描いて納めようと思っている。

 それから祇園の裏手にある建仁寺――私が幼少の折りそ
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