ると思われます。
時代から言いましても、桃山には桃山の特長があり、元禄には元禄の美しさがあると思います。強いて言えば現代の風俗が一番芸術味に乏しいと思います。尠《すくな》くも私は現代のハイカラ姿が一番嫌いです。
現代は女の扮装法にしましても、化粧法にしましても昔に較べれば、較べものにならないほど各方面とも著しく進歩して便利になっているはずですのに、なぜその風俗が非芸術的に見えるのでしょう。それは、女自身がそれぞれ自分の性質なり姿顔形なりにしっくりふさわしいものがどれだというしっかりした考えがなくて、ただ猫の目のように遷《うつ》り変わる流行ばかりを追うからだと思います。自分に似合っても似合わなくても女という女が皆、二百三高地が流行《はや》れば二百三高地、七三が流行れば七三と、長い顔の人も円い顔の人も、痩せた丈の高い人も肥った背の低い人も、一様な風をするものですから其処に少しも調和のとれない、混雑した、落着かない好もしからぬ風俗が出来上るのだと思います。
近頃の電車の中などでも、昔のように丸髷や文金などの高雅な髪を結った人が少なくなりまして、馬糞をのせたような手つくねの束髪を余計に見るようになりましたが、どんなに上等な美しい服装も一向に引立たないで、お気の毒な気もしますし、時には浅ましくさえなって現代を詛《のろ》いたくなります。
流行っても流行らなくても自分に似合ったところはこれだと思った風をする考えが、女の人に出て来るようにならなければ嘘だと思います。私には、どうしても昔からの髷は一番日本の婦人にはしっくり似合うように思われます。
それでは昔からの日本の婦人で誰が一番好きだ、と言われますと、これは風俗からではなくて心の現われからという風に思われますが、私は朝顔日記の深雪《みゆき》と淀君が好きです。内気で淑かな娘らしい深雪と、勝気で男優りの淀君とは、女としてまるきり正反対の性質ですけれど、私にはこの二人の女性に依って現わされた型が好きなのです。まだ盲目《めくら》にならない深雪が、露のひぬま……と書かれた扇を手文庫から出して人知れず愛着の思いを舒《の》べているところに跫音がして、我にもあらず、その扇を小脇に匿《かく》した、という刹那のところを一度描いたことがあります。淀君はまだ描いて見ませぬがいずれ一度は描いてみたいと思います。
底本:「青眉抄・青眉抄拾遺
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