々《そそ》とした感じは一点の難もないまでによく調和したものになっている。
 そこにゆくと支那の児童達は昔の支那をよく残している。日本の子供といえば、頭の恰好はほとんど定っており、男か女の子かも大体一眼でわかるのだが、支那の子供達の頭は大袈裟にいうと千差万別といってよい。前額に二、三寸に梳《くしけず》れる程の髪を残してあとは丸坊主の子、辮髪《べんぱつ》風に色の布で飾ったお下げを左右に残すもの、或は片々だけに下げているもの。絵にある唐子《からこ》の姿で今も南京上海の街、田舎の辻々に遊んでいる。
 莫愁湖の畔にもの寂びた堂があり、そこでは付近の子供を二、三十人集めて寺子屋のような学校がひらかれていた。その二、三十人がみんなその唐子達である。私たちが近よると物珍しいと見えて、その唐子達はついて来る。私は面白がってそのなかの一人の頭に手をやると、その唐子は驚いたようにして逃げて行ってしまった。

     秦淮《シンワイ》にて

 楊州で画舫《がぼう》を漕いでくれた母親の方にはまだまだ昔の支那が残っていたようである。私は秦淮の街にスケッチに出かけて、そういう女も写したりした。そこには画舫も沢山浮き、古来多くの詩はそこの美しさをたたえている。それほどの名所でありながら、いまはきたない。江水も画舫も思う存分きたない。そこへ安物店の食べもの屋が出ているのである。
 大きな傘を立てただけの店で、油揚げのようなものを売っている女。私は次々とスケッチして歩いた。
 支那の人達は悠々としているという話は度々聞いている。雲雀を籠にいれて野山に出かけ、それを籠から出して大空に鳴かせあって日を暮らすという話などよく聞く。それと同じ気持なのだろう。こういう雑踏した街で、しかも角の真中に女が坐りこんで着物などのつくろいをしている。四辺《あたり》はどうあろうともそこだけはぽかぽかと陽当りよく、余念もない女の針がひかっているのである。
 物静かな京都の街なかでもこんな風にお前はお前、私は私といった風景はみられはしないであろう。
 そういえは此処の自動車は何時間でも人を待っていてくれる。上海のホテルの六階から見おろした表通りに、それこそ何百台と数えられる自動車がずらりと並んで駐車しているのを思いだす。あれだけの自動車がいつ客を乗せる番に廻り合わせるのかと思っただけで気が揉めるであろうのに、支那人は悠々と待っているのであろう。

     連絡船にて

 往路の長崎丸は静かな船旅であったが、帰途の神戸丸は上海を出離れるとすぐから少しゆられた。人々はすぐ寝こんだので私もそれにならい、ついに船酔いも知らずにしまった。
 長い旅の経験もない私にとって一ヵ月といえば大変なものであるが、過ぎさったものはほんの短い時日にしか思えない。この年になって日本以外の土地に足跡を残したのは思いもよらぬ幸いといわなければならないであろう。だがいま自分は日本に向っているのだと思うと、やはり沸々とした心楽しさがあるように思われる。船特有のひびきは絶えず郷愁のようなものを身体に伝えて来る。
「陸が見えますよ」
 と、いう声は本当になつかしいものに聞こえた。激しい向い風のなかに見え始めた故国日本の姿はまったく懐かしい限りであった。そのくせ帰りついて昨日まで支那人ばかり見ていたのに、四辺《あたり》はどこを見ても日本人ばかりなので、どうにもおかしな気持でしかたがなかった。
 みんなは「支那ぼけでしょう」といって笑っている。あるいはそうかも知れない。まったく支那ぼけとそう呼びたいような疲れが身体のどこかにまだ残っている感じである。



底本:「青眉抄・青眉抄拾遺」講談社
   1976(昭和51)年11月10日初版発行
   1977(昭和52)年5月31日第2刷
初出:「画房随筆」錦城出版社
   1942(昭和17)年12月
入力:川山隆
校正:鈴木厚司
2008年10月23日作成
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