かも知れない。
南京にて
十三日。南京に着いて宿舎に憩《いこ》う暇もなく汪精衛主席に会う都合がついたからと公館に挨拶に出かけることになった。
此処も数限りない菊の真っ盛りであった。大きな亀甲模様の床、深々とした椅子、その大広間にも菊の鉢がずらりと並んでいた。
汪主席はかねて美術に理解のある方だと聞き知っていたが、眼にとまるところに砂子地に鶴を描いた六曲屏風が据えられていた。いずれは日本の知名の方の贈物かも知れない。日本画の筆になった新しい絵のようであった。或は知っている作家かとも思うが、少し遠いので落款《らっかん》をはっきり見ることが出来なかった。
物静かな、大柄な、青年のような汪主席はいまは日本にとっては多く親しまれた風貌であろう。部屋には新聞社の写真班の方々もどやどやと見えていた。お話は通訳を通してのことであるが、汪主席は始終にこにこと微笑を浮べていられる。黒っぽい背広に、地味なネクタイ、角刈の頭といった、何処までも品のよい落着きを身につけている方であった。これが常に支那のために身を挺して闘って来た人であるという激しさはどうにも汲みとれない静かさである。
私は型ばかりの手土産にと持参した色紙をお贈りしたが、これもあふれるような笑顔で受けて貰えた。そして、
「画風はどんなものか」というように聞かれたので、私は風俗をやっていると答えたりした。
帰りに眼にはいった次の間には、日本の具足が一領飾られてあったようであった。
同じ南京では畑支那派遣軍総司令官閣下に御挨拶に参上した。後宮総参謀長その他の幕僚も御一緒であったが、畑大将は私が杭州で風邪をひき、二日ばかり微熱のために静養したのを土地の新聞か何かで御存じであったのであろう、
「杭州でお悪かったそうだが、いかがです」という風にたずねられた。
「お蔭様で、もうすっかりなおりましたので……」とお答えすると、
「それはよかった。然しまあ無理をしないように……」と言われた上に、追いかけるようにして、
「それからどんなことがあっても生水だけはのみなさるな」
と、細かい注意をして下さるのであった。これは常々兵隊の身を案じ続けていられる心遣いが私のような者の上にも泌《にじ》みでるように出たお言葉であろうと胸に響くものがあった。大将こそ身体を御大切に、ついそう念じないではいられなかった。
これはまた汪主
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