風の音を聞きながらせまい茶室に座しているのも、禅を行なう人がうす暗い僧堂で無念無想の境に静座しているのも、画家が画室で端座しているのも、その到達する境地はひとつである。

 墨をすり紙をひろげて視線を一点に集めて姿勢を正せば、無念無想、そこにはなんらの雑念も入り込む余地はない。
 私にとっては画室は花のうてなであり、この上もない花の極楽浄土である。

 制作につかれると私は一服の薄茶をたててそれをいただく。
 清々しいものが体の中を吹き渡る……つかれはすぐに霧散する。
「どれ、この爽涼の気持ちで線を引こう」
 私は筆へ丹念に墨をふくます。線に血が通うのはそういう時である。

 色や線にふとしたことから大へんな失敗を起こすことがある。そういう時は御飯をいただくことすら忘れて一日も二日も考え込むことがある。
 失敗をごまかそうとするのではない。この失敗を如何にして成功の道へ転換させようかと工夫するのである。
 研究する。ああでもない、こうでもないと空に線を描き色を描いてそれを生かそうとする。
 ふとこれが新しい色になり、新しい線、そして新しい構図にまで発展してくれることがしばしばある。
 失敗は成功のもとと言う。古人の残した言葉は不動である。

 誤ったために、その失敗を工夫して生かし思わぬ佳作が出来上ることがある。そのような時はまた格別に嬉しい。それは画境に一進展の兆しがある場合が多いのである。

 なんとかしてそこを補おうと工夫しながら眠りに落ちる。
 そのような時には夢の中にまで、その工夫がのびてゆく。
 松園という字がすうッと伸びて梅の一枝になっていたりする。
 夢の中で失敗の箇所に対する暗示を得ることもある。
 しかし目がさめてからその絵を見直すと、実際の絵と全然別の失敗箇所であったりしてがっかりすることもある。

 自分の芸術に身も心も打ち込める人は幸福である。
 そのような人にのみ芸術の神は「成功」の二字を贈るのではなかろうかと思う。

 もう永年私の家にいる女中さんだが、私は一向にそのひとの名前を覚えられない。
「女子衆《おなごし》さん」
 私は誰にでもそう呼んで用をしてもらっている。
 芸術以外の世界では私は何ごとによらず素人である。
 女中さんの名前を呼びわけるだけの記憶力もないのらしい。

 先日古い反古を整理していたら、亡き母が若い頃書いた玉露の
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