法なのである。
 易者は私の四柱をしらべていたが、
「こらえらいええ四柱や、この子は名をあげるぜ」
 と言った。母は大いに悦んで、易者に、
「おおきに、おおきに」
 と何遍も頭をさげていたのを覚えている。

 私はたいてい女性の絵ばかり描いている。
 しかし、女性は美しければよい、という気持ちで描いたことは一度もない。

 一点の卑俗なところもなく、清澄な感じのする香り高い珠玉のような絵こそ私の念願とするところのものである。

 その絵をみていると邪念の起こらない、またよこしまな心を持っている人でも、その絵に感化されて邪念が清められる……といった絵こそ私の願うところのものである。

 芸術を以て人を済度する。
 これくらいの自負を画家は持つべきである。

 よい人間でなければよい芸術は生まれない。
 これは絵でも文学でも、その他の芸術家全体に言える言葉である。
 よい芸術を生んでいる芸術家に、悪い人は古来一人もいない。
 みなそれぞれ人格の高い人ばかりである。

 真・善・美の極地に達した本格的な美人画を描きたい。

 私の美人画は、単にきれいな女の人を写実的に描くのではなく、写実は写実で重んじながらも、女性の美に対する理想やあこがれを描き出したい――という気持ちから、それを描いて来たのである。

 私も現在の絵三昧の境に没入することが出来るようになるまでには、死ぬるほどの苦しみを幾度もいく度も突き抜けて来たものである。

 いたずらに高い理想を抱いて、自分の才能に疑いを持ったとき、平々凡々な人間にしかなれないのなら、別に生きている必要はないと考え、絶望の淵に立って死を決したことも幾度あったことか……

 少し名を知られてから、芸術の真実に生きてゆく道に思い悩んで、一体地位や名誉がなんになるのかと、厭世の念にとらわれ、自分の進んでいる道が正しいのか正しくないのかさえ判らず思い悩んだことも幾度。

 そのようなことを、つきつめて行けば自殺するほか途はない。
 そこを、気の弱いことでどうなると自らをはげまして、芸術に対する熱情と強い意志の力で踏み越えて――とにもかくにも、私は現在の境をひらき、そこに落着くことが出来たのである。
 あの当時の苦しみやたのしみは、今になって考えてみると、それが苦楽相半ばして一つの塊りとなって、芸術という溶鉱炉の中でとけあい、意図しなかった高
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