よかつたのでせうし、ひどく其処が気に入つてゐたやうですが、そのかはり、やぶ蚊が大変だと云ふので昼間でも大きな蚊帳をつつて、その中で絵を描いてゐられたと云ふ事です。
 何しろあのあたりは、やぶに取りまかれてゐて、町にゐるやうな訳には行かなかつたのでせう。
 八百三の時分は、そのあとでしたが、丁度あの家が、格子の間造りで古風な建物でした。その西の方に、きれいな風呂屋がありました。そこへよく弟子達が一しよについて行つて、先生のからだを、その風呂の中でしきりにもんでゐる今のマツサーヂと云ふのでせう、達者で顔色の艶やかな、その風貌を今でも覚えて居ります。

   四

 火事で丸焼けになつてから、私達は小さな家に引きうつりました。その頃如雲社と云ふものがあつて、毎月十一日の日に当時の作家の展覧会を催し、別室には故人の名作を展列して居りました。私はその頃、月の十一日を楽しみにして待つて、そこへ出かけるのでした。
 そして名作の縮図を取つて帰るのでした。熱心さに於いて何人にもまけるものか、と云ふのは私の信念であつた。ある時如雲社で、芳文さんが(あんたはほんたうに熱心な人だ)と云つてほめてくれた事などもありました。
 祇園祭の屏風や、博物館の陳列の作品をかかさずに必ず出かけて行く、これと思ふものは殆んど、余す処なく、花鳥人物、山水のきらひなく、それぞれ縮図をした。
 応挙の老松の屏風や、元信の巌浪の襖絵や、或は又島台の有名な又兵衛と云はれてゐる、美人の屏風や、何しろ今、古い縮図帖を引き出して見ると、さまざまな作品の写しが出てまゐります。
 祇園祭、はうばうの屏風絵があつて、小さな縮図帖と矢立をもつて出かけるのでした。そして一々古屏風の前に座つて、足のしびれ切るのも知らずに、写し続けます。又博物館なぞでも朝から立ち続けで縮図をしてゐると、昼の食事もせずに写すのでした。写してゐると欲が出て、空腹が忘れる程におぼえます。
 始めのうちは、うまく行かない、写してゐるうちに次第に気合がのつて、ひとりでにすらすらと正確な摸写が出来て行く。
 たとへば混みいつた、群衆を写し取るにしても、或は一人の人物の立像を写すにしても、それが突き出した右手の拳から写し取つて行つても、ふみ出した足の爪先から写し取つて行つても、どこから写し始めるにしても、形にくづれが来ずにちやんと不都合のない写しが出来て行きます。

   五

 こんな事がありました。
 その頃は今日ほど、数多い売立もありませんでしたが、しかし時々真葛ヶ原の料理屋などで催されて居りました。
 さう云ふ時には、かかさず出かけて行つて、これと思ふ作品は写し取つたものでした。処が売立に出かけて行くと云ふ場合は、大抵それを買ひに行くお客さんであるべき筈ですが、私の場合は絵を写しに行くので、買ひに行くお客ではない。
 ひとつの作品の前に座つて、いつまでもいつまでも、それを写し取る。
 見に来た客の、それが邪魔にならぬと云ふ事はないわけです。或る時、いぢの悪い道具屋が、さうして縮図してゐる私の側につかつかと歩みよつて、客のある時はさう云ふ事をして居られると邪魔になるから、お客のない時にしてくれと云ひました。
 その頃は今日と違つて写真版の這入つた目録なぞと云ふものが、まだ出来てゐなかつた。定家卿の懐紙ならば、定家卿の懐紙と活字だけで印刷した、簡単な目録よりなかつたものです。だからこれと思ふものは、どうしても手で写し取つて置かなければならない。
 私はこのきつい言葉をきいて、その場は静かに縮図帖をふせてそのまま外に出ました。そこは多分平野屋だつたと覚えてゐます。
 表へ出て二、三歩あるきかけた時、なぜかしらぽろぽろと熱い涙がこみあげて来ました。

   六

 その翌日の事です。むしがしを使ひのものに持つて行つてもらひ、手紙を付けてやりました。
 成程お邪魔を致しました事は、まことにお気の毒に存じます。しかし私にして見れば、研究のためで、つい気のつかぬことをいたしました。今後は、お邪魔にならぬ程度に、何卒お見せを願ひます――と云ふやうな意味のことを書きました。
 それからは、先方も大変、好感を有つて見せてくれるやうになりました。
 今日では写真版があつて、さうしたおもひをしなくとも、どんな名作をも居ながらに見ることが出来ますが、以前はなかなかさうは行かなかつた。しかしその不便さのなかで、現実に自身の手で、写し取つておいたものは、いろいろな点で、それが自分につけ加へるものがあるとおもひます。
 そのころ、四条の御幸町角に、吉観といふ染料絵具や、いろいろの物を売つてゐた家があつて、そこへよく、東京から、芳年や、年方などの錦絵が来てゐました。もつともここばかりではなく京都では、錦絵を売る家は、二、三軒もありました。さういふも
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