小町を描いた古画がありました。私はそれを借り受けて、たんねんに写し取つて置いた事があつた。
 火事の時に家財や、衣類などよりも、まつさきに取り出さなければならぬと、即座に頭にひらめいたものは、その小野小町の写しでした。
 これは私の十九歳のときでした。それからまた火事に逢ひました。それは恰度いまから六、七年前のことでした。今の住ひの竹屋町間之町のあたりに火を発して、その界隈が三、四軒やけた。
 風のある夜で警鐘の音、人のざわめきに、フト胸をつかるる思ひで二階へかけあがつて見ると、火の粉は暗い夜空に一面にとびちり、私のうちの屋根や庭に、ばらばらととびちつてくる。
 火元はとみれば、まるでぎす籠のやうになつて、すさまじい勢ひでもえてゐる。
 恐らくこの家も灰になつてしまふに違ひない。それにしてもまだ建ててから間もないこの家が、焼けてしまふのであらうか、恐らくはこの風に、この火の手ではとてものがれる処ではあるまい。
 焼けるものときまつたからは、さて何を取り出すべきであらうか。自分にとつて、もつとも大切なもの……それは数限りないさまざまなものがあるが、しかし自分の一番心血をそそぎ、一番苦労をしたものを取出したい、と思つて、私は今までの縮図帖をとりまとめて風呂敷に包みました。
 縮図帖、これこそは私に取つて何物にもかへることの出来ない大切な宝でした。まだ幼い頃からの、さまざまな古名画を、それはそれは、なみなみならぬ苦労をして写し取つて置いたものでした。
 その時は幸ひ早く消しとめて、この家も類焼の厄にあはずにすみました。

   三

 四条に居た時分、私の十幾つ位のときで、まだ絵を習はなかつた時分に、南画を、文人画といつて四条派よりも狩野派よりも、さかんに世上にもてはやされて居りました。もつとも私の十二、三の頃に、すでに文人画がはやるのだといふことを、よく聞きおぼえて居ります。
 紅平の前にゐた頃、麩屋町の錦下るあたりに、さる旅館があつて、そこへ田能村直入さんが、自分の家のやうにして泊り込んで絵を描いてゐられた。大分長くそこに居られた。南画学校も出来た。
 それから黄檗山にも行つて居られたし、若王子にも居られたが、私共が車屋町に居た時分は、八百三に永く居られた。
 黄檗山の頃は、なんでもあすこが大変涼しいと云ふので行つてゐられたらしく、寺の大きな広間の事ですから、風通しも
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