野松雲とか云ふ達者な人達が先頭に立つて、美術の将来だとか杖は失ふべからずなどと云ふ演題で口角泡を飛ばしてゐた。
自画像と云つては恐らく此十六歳の時の丈《だ》けより無いだらうが、鏡を見ては描き見ては描きした事を思ひ出す。洗ひ髪のと笑つたのと此三枚が一ヶ処に描かれてゐる。
其頃の着物は皆|素味《ぢみ》だつた。十三、四の頃の着物が残つてゐて、此年になつても私は時折着るが、夫れでちつとも可笑《をか》しいと思へない。夫れ程昔は素味なものが流行《はや》つた。髪は蝶々だが前髪を小さくとつて、襟には黒繻子が掛つてる。恁ふした風は其頃の町の娘さん達一般の風俗だつた。着物が素味だつた割に、帯は赤の玉乗り友禅や麻の鹿の子などはんなり[#「はんなり」に傍点]してゐた。
少しハイカラな娘さんは束髪を結つた。江戸ツ子に前を割つて後ろで円く三ツ組にし網をかぶせたりした。色毛糸で編んだシヤツを着たりしてゐる人もあつた。
髷は蝶々が一番普通で、少し若い人達だと前髪を切つて下げてる人もあつた。も少し若い人達には福髷が流行り、七、八つから十一、二迄の娘さんはお稚子《ちご》髷に結つてゐた。
松年先生の塾には女のお弟子が数人ゐたが、其内私は中井|楳園《はいえん》さんと一番親しくしてゐた。香※[#「山+喬」、第3水準1−47−89]《こうきよう》さんの塾の二見《ふたみ》文耕《ぶんこう》さん、後に小坡と云ふ名になり伊藤姓になられたのはずつと後だと思ふが、その小坡さんや六人部《むとべ》暉峰《きほう》さん、景年さんの塾の小栗何とか言はれた人、夫れに私の六人が、丁度先輩から言つてもどつこいどつこいだつたので、月一回近郊の写生旅行をする事になつた。
今の様に自動車はなし勿論電車さへ無い頃だつたので、各自お弁の用意をして、後結ひ草履で、朝四時頃から揃つては鞍馬や宇治田原あたりに行つた事がある。写生帖を見ると、宇治田原あたりの田舎家や渓流など丹念に写されて居り、編物をしてゐる楳園さんのお若い娘姿もある。
栖鳳《せいほう》先生が西洋から帰へられて二、三年後大阪で博覧会が開かれた。其時先生は羅馬《ローマ》古城趾真景を出品されたが、其年前後から栖鳳先生の塾で近郊写生旅行が繁々行はれた思ひ出がある。
先生も洋服を着て一緒に行かれたが、内畑暁園、八田青翠、千種草雲と云ふ様な人達が中心になつて、私も後からよくついて
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