てはずいぶんと苦労をしました。

 私は芸妓ひとつ描く場合でも、粋ななまめかしい芸妓ではなく、意地や張りのある芸妓を描くので、多少野暮らしい感じがすると人に言われます。
「天保歌妓」(昭和十年作)などにそれがよく現われていますが――しかし、それも私の好みであってみれば止むを得ません。

「序の舞」は政府のお買上げになったもので、私の「草紙洗小町」「砧」「夕暮」の老境に入っての作の一画をなす、いわば何度目かの画期作とも言うべきものでありましょう。

        夕暮

 私の母はすべての点で器用なひとでありましたが、書画もよくし、裁縫などにもなかなか堪能で、私は今でも母が縫われた着物や羽織などを大切にしまって持っております。
 それはこの上ない母のよいかたみになっているのです。

 私の家は、前述のように、その頃ちきり屋と言って母が葉茶屋をいとなんでおりましたが、その母屋の娘さんの着物など母はよく縫ってあげていたものでした。
 裏の座敷でせっせと、一刻のやすむ暇も惜し気に、それこそ日の暮れがたまで針の手を休められない。
 西陽はもう傾《かし》いであたりはうすぼんやりと昏れそめても、母は気づかぬげにやはり縫い続けておられる。
 私は晩御飯の用意を心配して、子供ごころに空腹を案じながら、そのうしろにじっと坐って母の背中を凝視《みつ》めている。
 ふと、静かな母の針の運びが止まる。
「もうちょっと、ほんのこれだけ縫うたらしまいのんやよって……ほんに陽のめが昏《く》ろうなった……」
 半ば独りごち、半ば背後の私に言うかのように小さな声でそう言われて、つと障子の傍らまでいざり寄られ、針を眼の高さまで挙げ、右の手には縫糸の先を持たれたままの格好で、片方の眼をほそく細く閉じられて、じっと針の目を通そうとなさっている……その姿が私の幼ごころにも、この上なくひとすじに真剣な、あらたかなものに想われたものでした。

 ざっとあれから五十年の歳月が経っていますが、今でも眼を閉じると、そんな母の姿がありありと私の網膜に映じて消ゆることがありません。

 私の第四回文展出品作「夕暮」は、徳川期の美女に託して描いた母への追慕の率直な表現であり、私の幼時の情緒への回顧でもあります。



底本:「青眉抄・青眉抄拾遺」講談社
   1976(昭和51)年11月10日発行
入力:鈴木厚司
校正:川山隆
2007年4月24日作成
青空文庫作成ファイル:
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