四十数年も前の、京都発行の「日の出新聞」をみつけ出し、おや珍しいもの、とひろい読みしていたところが、当時の、その私の勧業博出品画に関する記事があったので非常に昔なつかしい感を覚えました。

 その時のことですが、私の親戚で、ひとりなかなかよくゴテる叔父がおって、私が画学校に通うことを非常に嫌い、というより、母が私を許して絵の学校へやっていることが気に食わない。
「上村の娘、絵など覚えてどないするつもりかいな」
 と、私の家へ来るごとはもちろん、かげでもうるさく非難しておったが、母がべつに他人様や親類すじから世話になっているわけでもなし、と一向気にかけなかった。
 ところが、この叔父が新聞紙上で私の博覧会出品作に褒状がくだされたということを読み識ってからは、一変してしまい大へん有頂天に喜んで、わざわざ私の家へ祝いにやって来た始末。それからは私のまあ、今でいうファンですが、大へんひいき[#「ひいき」に傍点]にしてくれて、展覧会などへは絶えず観に行っては私の絵を褒めまわっていたようである。

 その翌々年の明治二十五年にも同じ題材、同じようなイキ[#「イキ」に傍点]で「四季美人図」を描いて展覧会に出品したが、これは前の勧業博出品の「四季美人図」が評判になったためであろうか、農商務省からの名指しで、始めからシカゴ博の御用品になされる由お達しがあり、六十円の金子が下げられた。そこで私は描き上げた絵を板表装にして送ったが、その時分の六十円だから、私にとっては驚くほどの多額でした。
 何しろその時京都から出品したのは、私のほかにと言っては岩井蘭香さんがおられたくらいのもので、蘭香さんは当時もう六十歳くらいの御年齢でしたから、まるで破格の待遇であったわけだ。東京から跡見玉枝さんなどがこの博覧会に出品されたように覚えている。

 この時の「四季美人図」も審査の結果二等になり、アメリカでは私の写真入りで大いに新聞が書きたてたそうである。
 そのとき送って来た唐草模様の銀メダルが今でも手許に残っている。

 表装してくれた京都の芝田堂の主人、芝田浅次郎さんが自分の絵が入選でもしたように悦んで、早速お祝いに来てくれたことも憶い出となっている。
 東京の跡見玉枝、野口小蘋の両女史、京都の岩井蘭香という名声嘖々たる女流画家に伍して、十八歳の私が出品出来、しかもそれが入賞したのであるから、母は涙を流さんばかりに喜んでくれたものであったが、これも想えばかぎりなくなつかしい昔話となってしまった。



底本:「青眉抄・青眉抄拾遺」講談社
   1976(昭和51)年11月10日初版発行
   1977(昭和52)年5月31日第2刷
入力:川山隆
校正:鈴木厚司
2008年3月22日作成
青空文庫作成ファイル:
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