うな何とも言えない親しみのある感じになります。その気持が私には何とも言えずうれしいのです。
 どうさ[#「どうさ」に傍点]の代りに湯引きしますのもそうした気持からで、生絹やどうさ[#「どうさ」に傍点]引やと湯引とでは丁度新しい絹と涸らしたのとの違い程の感じがあるように思われます。絹と紙とでは又そうした感じの違いがあります。紙ですと大抵どんな紙でも絹よりは墨や絵具を吸い取る力は強いものですが、それだけに味わいはあるように思います。どうさ[#「どうさ」に傍点]を引立ての絹ですと、どんなにゆっくりと線を引いていても、ちっともちぢむような心配はありませぬが、紙ですとサッサッと筆を走らせないとすぐに思いも寄らぬにじみが出来てしまいます。紙本の味は、少しでも筆が渋滞すればすぐににじみ勝ちの吸湿性があるのですが、それをにじませないように手早く筆を走らせた軽妙な筆味にあるわけでしょう。ところが、余程確かな筆でないとそう手早く軽妙に動いてくれませぬ。じっくり落着いて絹にばかり描き馴れた若い人達が紙本を扱っても容子に[#「容子に」はママ]思うような絵の描けないのはもっともなことですが、しかし紙本の味は又、下描きをした上から丹念に描いた一点一劃間違いのないような精細確実な処にあるのではなくて、軽妙洒脱な筆の味ばかりでもなく、時には筆者さえも予想しなかったような、勢いに乗じて出来た妙味があります。この筆勢の妙味は時には再び繰返そうとしても到底繰返すことの出来ないようなものも出来ます。そこに何とも言えない紙本の味があると言えます。
 この、絹本よりは紙本、生絹よりは涸らした絹、どうさ[#「どうさ」に傍点]引よりは湯引、という関係がある種の柔かい味と生硬な味とを材料そのものからして持っているように思われます。

 今日のようなスピード時代から見ますと、今の紙本に走り書きした妙味が喜ばれそうなものですのに、紙本の味などよりは絹の上にコテコテと丹念に描いた絵の方が喜ばれている傾きがあるのは不思議でもあります。が又、いくらスピード時代だからと言っても、絵ばかりは駆け出しの若い人にはどうしても紙本などこなす腕が出来ませぬ。じっくりと叩き込んだ腕でないと筆が軽く自由に動いてくれませぬ。
 考えてみますと近頃の若い画家は皆あまり早く効果を挙げようと結果を急ぎ過ぎているように思います。絵を稽古するのは上手に
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