の髪《わげ》の形を見出したのであった。それにヒントを得て一気呵成にあの梅花粧の故事が出来上った訳であるが、これも美の神のご示現であろうと今でもそう思っている。
夜、家の者が寝静まってしまうと私も疲れを覚えて来て体をちょっと横たえようとし、そのあたりに散乱している絵具皿を片つけにかかる。ふと絵具皿の色に眼がつく。それが疲れ切った眼に不思議なくらい鮮明に映る。めずらしい色などその中にあると、
「おや、いつの間にこのような色を……ちょっと面白い色合いやなア」
と思わず眺め入ってしまう。それをここへ塗ったらとり合わせがいいなあ――とつい思ったりすると、いつの間にか右手は筆をもっている。識らず識らずのうちに仕事のつづきが続いている。
同じように、寝ようとしてふと眺め直した絵の線に一本でも気になるのがあると、
「すこしぐあいが悪いな……この線は」
とそれを見入っているうちに修正の手がのびているのである。そして識らず識らず夢中になって仕事をつづけている。興がのり出す。とうとう夜を徹してしまう。知らぬ間に朝が障子の外へ来ているということは、しばしばというよりは毎日のようなこともあった。
「はて、いつ一番鶏二番鶏が啼いたのであろう」
私は画室の障子がだんだん白みを加えてゆくのを眺めながら昨夜の夢中な仕事を振り返るのであった。
気性だけで生き抜いて来たとも思い、絵を描くためにだけ生きつづけて来たようにも思える。
それがまた自分にとってこの上もない満足感をあたえてくれるのである。
昭和十六年の秋に展覧会出品の仕事を前に控え、胃をこわして一週間ばかり寝込んでしまった。これも無理がたたったのであろう。
胃のぐあいが少しよくなった頃には、締切日があと十余日くらいになってしまった。
「夕暮」の絵の下図も出来ていたことだし自分としても気分のいい構図だったので何とかして招待日までに間に合わせたかったので、無理だと思ったが一年一度の制作を年のせいで間に合わせなかったなどと思われるのが残念さから、負けん気を起こして、これもまる一週間徹夜をつづけた。恐らくこれが私の強引制作の最後のものであろうと思う。
一週間徹夜――と言っても、少々は寝るのであるからこの時はさほどに疲労は来なかった。
夜中二時頃お薄《うす》を一服のむと精神が鎮まって目がさえる。それから明日の夕飯時ごろまで徹夜の延長をし、夕方お風呂を浴びてぐっすり寝る。すると十二時前に決まって目がさめる。それから絵筆をとって翌日の午後五、六時ごろまで書きつづけるのである。
一週間頑張って招待日にはどうにか運送のほうが間にあったので嬉しかった。
「夕暮」という作品が夜通しの一週間のほとんど夜分に出来上ったということも何かの暗示のように思えるのである。
医者が来てこんどは怒ったような顔をして言った。
「あなたは倒れるぎりぎりまで、やるさかいに失敗するのです。今にひどい目にあいますよ」
無理のむくいを恐れながらも私はいまだに興がのり出すと夜中にまで仕事が延長しそうになるのである。
警戒々々……そんな時には医者の言葉を守ってすぐに筆を擱《お》く。そのかわりあくる朝は誰よりも早く起きて仕事にかかるのである。
一般には画は夜描きにくいものであると言われているが、しかし画を夜分描くことは少しも不思議ではない。
世間の寝静まったころ、芸術三昧の境にひたっている幸福は何ものにも代えられない尊いものである。
ときどき思うことがある。
これだけの無理、これだけの意気地が私をここまで引っ張って来てくれたのであろう……と。
私は無理をゆるされて来たことについて、誰にともなくそのことを感謝することがある。
私の母も人一倍丈夫な体をもっていた。病気というものを知らなかったようである。
若くから働く必要のあった母は、私同様に病気にかまってはいられなかったのであろう。
働く必要が母に健康をあたえてくれたとでも言うのであろう。
母は八十歳の高齢ではじめて床に就き医者をよんだのであるが、その時、脈らしい脈をとって貰ったのはこれが始めてだ、と私にもらしていた。
母は八十六歳でこの世に訣れを告げたのだが、私もまだまだ仕事が沢山あるので寿命がなんぼあっても足らない思いがする。私は今考えている数十点の絵は全部纒めねばならぬからである。
私はあまり年齢のことは考えぬ、これからまだまだ多方面にわたって研究せねばならぬことがかずかずある。
生命は惜しくはないが描かねばならぬ数十点の大作を完成させる必要上、私はどうしても長寿をかさねてこの棲霞軒に籠城する覚悟でいる。生きかわり死にかわり何代も何代も芸術家に生まれ来て今生で研究の出来なかったものをうんと研究する、こんな夢さえもっているのである。
ねが
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