乗り合はせてゐられました。その時恰度私の方の側が陽が照つて来ましたので、「こちらへおかけやす」と、その時、春挙さんの隣りに空席が出来たので、おとなりにかけましたところが、恰度ラヂオで放送された直後の事でしたので、その話をしてゐられました。伝統的な手法を忘れて、一体に画壇が軽佻浮薄に流れて、いけないと云ふやうなお話をしきりにせられてゐました。
その時、膳所《ぜぜ》の別荘は大変御立派ださうですねと云ひますと、あなたはまだでしたか、御所の御大典の材料を拝領したので茶室をつくりました、おひまの時は是非一度来てほしいと云はれて、それがもう去年の事になりました。そんなに早くなくなられるとは、とてもおもはれませんでした。
私が十六、七の頃ですが、全国青年絵画協進会と云ふのが御所の中で、古い御殿のやうな建物があつて、そこでよく開いてゐましたが、その時春挙さんが、海辺に童子のゐる絵を描かれました。私はその時、月下美人と云ふ尺八寸位の大きさの絹本に、勾欄《こうらん》のところに美人がゐる絵を描いて出しました。それが、一等褒状になりましたが、春挙さんが、それを親類の方でほしいと云ふので、私の方へゆづつてくれと云はれて、持つて行つた事があります。これは春挙さんのところへ行つてゐるのです。その後、どうなりましたかわかりませんが、それは明治二十五、六年の頃だつたとおもひます。
何しろ纒つた話もなく、問はれるままに思ひ出を語つてみました。[#地付き](昭和九年)
底本:「青眉抄その後」求龍堂
1986(昭和61)年1月15日発行
初出:「都市と藝術 240号」
1934(昭和9)年
入力:鈴木厚司
校正:川山隆
2008年5月19日作成
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