、私の母は非常に丈夫な上に意志の強い人です。父と早く死別した後、姉と私とたった二人姉妹ではあったが、兎に角父の商売だった葉茶屋を続けて、そして私達を育ててくれました。
その母の丈夫なのを遺伝してか、幸い私は丈夫な方だ。私は暑いのより寒いのが平気だ。だから十月頃かち三、四月頃までだと、私は随分よく根気が続く。喜久子姫の御屏風なども、ちょうど季節が私の躯にいい頃だったので先ず先ず押し通せたようなものの、六月七月となるとそうは根気が続きかねます。
私は以前には杵屋六左衛門派の師匠に就いて、唄う方と弾く方と両方とも稽古したことがありますが、今はやめて謡曲だけ続けている。月に四回、金剛流の師匠に来て貰って、松篁《しょうこう》と嫁の多稔子《たねこ》と私と三人で稽古を続けている。私にはどうも絵以外のことだと、専門外の余技だという気がして打ち込んで熱中してやる気になれない性分がある。三味線にしても長唄にしても、最初は謡曲にしてもそういう風にズボラに考えていたが、近頃では、如何に余技にしてもどうせやるからには何か一つくらい懸命にやってみようという気になって、ちょうど女性ばかり六、七人が三月に一度ずつ集って、三番謡の集りをするのがあるので、この頃謡曲に身を入れています。この次の会には小鍛冶の脇が私の役に振当てられたりしているが、出来ないまでもそうして役が当てられたりしてみると、多少身を入れて稽古をする気にもなる。上手な人のを聴いていると、節廻し一つにしても言うに言われぬ微妙な味がある。その抑揚《よくよう》の味のよさを、聴いて味わうだけでなく、むつかしいながら自分でもやってみようという励みが出て来る。
こんな調子に、むつかしい味のものを出そうとする気持なり励みなりを考えてみると、形式はちがっても絵画の上に苦心している気持と同じ味のものがあるように思う。私は謡曲をやっていながら、それが廻り廻って絵の方にも役立っていると思うようになって来ました。画家だからと言って絵を描くばかりの一本調子では、どうも考え方にしても描き方にしても固苦しくなり窮屈になると思う。私が謡曲に身を入れたりしているのも、やはり元はといえば自分の芸術を少しでも成長させたいと思うからです。
底本:「青眉抄・青眉抄拾遺」講談社
1976(昭和51)年11月10日初版発行
1977(昭和52)年5月31日第2刷
初出:「大毎美術 第九巻第三号」
1930(昭和5)年3月
入力:川山隆
校正:鈴木厚司
2008年5月17日作成
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