て、こちらは、いやな気がするだけだ。なんにも要らない。はい、と素直な返事だけでも、してお呉れ。すみません、と軽い口調で一言そっと、おわびをなさい。君は、無智だ。歴史を知らぬ。芸術の花うかびたる小川の流れの起伏を知らない。陋屋《ろうおく》の半坪の台所で、ちくわの夕食に馴れたる盲目の鼠だ。君には、ひとりの良人を愛することさえできなかった。かつて君には、一葉の恋文さえ書けなかった。恥じるがいい。女体の不言実行の愛とは、何を意味するか。ああ、君のぼろを見とどけてしまった私の眼を、私自身でくじり取ろうとした痛苦の夜々を、知っているか。
 人には、それぞれ天職というものが与えられています。君は、私を嘘つきだと言った。もっと、はっきり言ってごらん。君こそ私をあざむいている。私は、いったい、どんな嘘をついたというのだ。そうして、もっと重大なことには、その具体的の結果が、どうなったか。記録的にお知らせ願いたいのだ。
 人を、いのちも心も君に一任したひとりの人間を、あざむき、脳病院にぶちこみ、しかも完全に十日間、一葉の消息だに無く、一輪の花、一個の梨《なし》の投入をさえ試みない。君は、いったい、誰の嫁さんなんだい。武士の妻。よしやがれ! ただ、T家よりの銅銭の仕送りに小心よくよく、或いは左、或いは右。真実、なんの権威もない。信じないのか、妻の特権を。
 含羞《がんしゅう》は、誰でも心得ています。けれども、一切に眼をつぶって、ひと思いに飛び込むところに真実の行為があるのです。できぬとならば、「薄情。」受けよ、これこそは君の冠。
 人、おのおの天職あり。十坪の庭にトマトを植え、ちくわを食いて、洗濯に専念するも、これ天職、われとわがはらわたを破り、わが袖《そで》、炎々の焔あげつつあるも、われは嵐にさからって、王者、肩そびやかしてすすまなければならぬ、さだめを負うて生れた。大礼服着たる衣紋竹《えもんだけ》、すでに枯木、刺さば、あ、と一声の叫びも無く、そのままに、かさと倒れ、失せむ。空なる花。ゆるせよ、私はすすまなければいけないのだ。母の胸ひからびて、われを抱き入れることなし。上へ、上へ、と逃れゆくこそ、われのさだめ。断絶、この苦、君にはわからぬ。
 投げ捨てよ、私を。とわに遠のけ! 「テニスコートがあって、看護婦さんとあそんで、ゆっくり御静養できますわよ。」と悪婆の囁き。われは、君のそのいたわ
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