鳥居をくぐり、うるしの並木路を走り抜け、私は無意味やたらに自転車の鈴を鳴らした。
沼の岸に行きついて、自転車の前輪が、ずぶずぶぬかった。私は、自転車から降りて、ほっと小さい溜息。狐火を見た。
沼の対岸、一つ、二つ、三つの赤いまるい火が、ゆらゆら並んでうかんでいた。私は自転車をひきずりながら、沼の岸づたいに歩いていった。周囲十丁くらいの小さい沼である。
近寄ってみると、五人の老爺《ろうや》が、むしろをひいて酒盛《さかもり》をしていた。狐火は、沼の岸の柳の枝にぶらさげた三個の燈籠であった。運動会の日の丸の燈籠である。老爺たちは、私の顔を覚えていて、みんな手を拍《う》って笑って、私を歓迎した。私は、その五人のうちの二人の老爺を知っていた。ひとりは米屋で破産、ひとりは汚い女をおめかけに持って痴呆《ちほう》になり、ともにふるさとの、笑いものであった。沼の水を渡って来る風は、とても臭い。
五人のもの、毎夜ここに集い、句会をひらいているというのである。私の自転車の提灯の火を見て、さては、狐火、と魂《たましい》消《け》しましたぞ、などと相かえり見て言って、またひとしきり笑いさざめくのである。私は、冷いにごり酒を二、三杯のまされ、そうして、かれらの句というものを、いくつか見せつけられたのである。いずれも、ひどく下手くそであった。すすきのかげの、されこうべ、などという句もあった。私はそのまま、自転車に乗って家へかえった。
「明月や、座に美しき顔もなし。」芭蕉も、ひどいことを言ったものだ。
る[#「る」はゴシック体]、流転|輪廻《りんね》。
ここには、或る帝大教授の身の上を書こうと思ったのであるが、それが、なかなかむずかしい。その教授は、つい二、三日まえに、起訴された。左傾思想、ということになっている。けれども、この教授は、五六年まえ、私たち学生のころ、自ら学生の左傾思想の善導者を以《もっ》て任じていた筈《はず》である。そうして、そのころの教授の、善導の言論も、やはり今日の起訴の理由の一つとして挙げられている。そのへんが、なかなかむずかしいのである。
もう四、五日余裕があれば、私も、いろいろと思案し、工夫をこらして、これを、なんとか一つの物語にまとめあげて、お目にかけるのだが、きょうは、すでに三月二日である。この雑誌は、三月十日前後に発売されるらしいのだから、きょうあたりは、それこそぎりぎりの締切日なのであろう。私は、きょうは、どんなことがあっても、この原稿を印刷所へ、とどけなければいけない。そう約束したのである。こんな、苦しい思いをするのも、つまりは日常の怠惰の故である。こんなことでは、たしかにいけない。覚悟ばかりは、たいへんでも、今までみたいに怠けていたんじゃ、ろくな小説家になれない。
を[#「を」はゴシック体]、姥捨山のみねの松風。
もって自戒とすべし。もういちど、こんな醜態を繰りかえしたら、それこそは、もう姥捨山だ。懶惰の歌留多。文字どおり、これは懶惰の歌留多になってしまった。はじめから、そのつもりでは、なかったのか? いいえ、もう、そんな嘘は吐きません。
わ[#「わ」はゴシック体]、われ山にむかいて眼を挙ぐ。
か[#「か」はゴシック体]、下民しいたげ易く、上天あざむき難し。
よ[#「よ」はゴシック体]、夜の次には、朝が来る。
底本:「太宰治全集2」ちくま文庫、筑摩書房
1988(昭和63)年9月27日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版太宰治全集」筑摩書房
1975(昭和50)年6月〜1976(昭和51)年6月
入力:柴田卓治
校正:小林繁雄
1999年9月11日公開
2004年3月4日修正
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