一夜、夫の枕もとに現われて、歌を詠《よ》んだ。闇の夜の、におい山路《やまみち》たどりゆき、かな哭《な》く声に消えまよいけり。におい山路は、冥土《めいど》に在る山の名前かも知れない。かなは、女児の名であろう。消えまよいけりは、いかにも若い女の幽霊らしく、あわれではないか。
いまひとつ、これも妖怪《ようかい》の作った歌であるが、事情は、つまびらかでない。意味も、はっきりしないのだが、やはり、この世のものでない凄惨《せいさん》さが、感じられるのである。それは、こんな歌である。わぎもこを、いとおし見れば青鷺《あおさぎ》や、言《こと》の葉なきをうらみざらまし。
そうして白状すれば、みんな私のフィクションである。フィクションの動機は、それは作者の愛情である。私は、そう信じている。サタニズムではない。
り[#「り」はゴシック体]、竜宮さまは海の底。
老憊《ろうはい》の肉体を抱き、見果てぬ夢を追い、荒涼の磯をさまようもの、白髪の浦島太郎は、やはりこの世にうようよ居る。かなぶんぶんを、バットの箱にいれて、その虫のあがく足音、かさかさというのを聞きながら目を細めて、これは私のオルゴオルだ、なんて、ずいぶん悲惨なことである。古くは、ドイツ廃帝。または、エチオピア皇帝。きのうの夕刊に依ると、スペイン大統領、アサーニア氏も、とうとう辞職してしまった。もっとも、これらの人たちは、案外のんきに、自適しているのかも知れない。桜の園を売り払っても、なあに山野には、桜の名所がたくさん在る、そいつを皆わがものと思って眺めてたのしむのさ、と、そこは豪傑たち、さっぱりしているかも知れない。けれども私は、ときどき思うことがある。宋美齢は、いったい、どうするだろう。
ぬ[#「ぬ」はゴシック体]、沼の狐火。
北国の夏の夜は、ゆかた一枚では、肌寒い感じである。当時、私は十八歳、高等学校の一年生であった。暑中休暇に、ふるさとの邑《むら》へかえって、邑のはずれのお稲荷《いなり》の沼に、毎夜、毎夜、五つ六つの狐火が燃えるという噂を聞いた。
月の無い夜、私は自転車に提灯《ちょうちん》をつけて、狐火を見に出かけた。幅《はば》一尺か、五寸くらいの心細い野道を、夏草の露を避けながら、ゆらゆら自転車に乗っていった。みちみち、きりぎりすの声うるさく、ほたるも、ばら撒《ま》かれたようにたくさん光っていた。お稲荷の
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