、ああ、あれだから、お母さんも佐吉さんを可愛くてたまらないのだ。佐吉さんがどんな我儘なふしだらをしても、お母さんは兄さんと喧嘩してまでも、末弟の佐吉さんを庇《かば》うわけだ。私は花火の二尺玉よりもいいものを見たような気がして、満足して眠ってしまいました。三島には、その他にも数々の忘れ難い思い出があるのですけれども、それは又、あらためて申しましょう。そのとき三島で書いた「ロマネスク」という小説が、二三の人にほめられて、私は自信の無いままに今まで何やら下手《へた》な小説を書き続けなければならない運命に立ち至りました。三島は、私にとって忘れてならない土地でした。私のそれから八年間の創作は全部、三島の思想から教えられたものであると言っても過言でない程、三島は私に重大でありました。
八年後、いまは姉にお金をねだることも出来ず、故郷との音信も不通となり、貧しい痩せた一人の作家でしかない私は、先日、やっと少しまとまった金が出来て、家内と、家内の母と、妹を連れて伊豆の方へ一泊旅行に出かけました。清水で降りて、三保へ行き、それから修善寺へまわり、そこで一泊して、それから帰りみち、とうとう三島に降りてしまいました。いい所なんだ、とてもいい所だよ。そう言って皆を三島に下車させて、私は無理にはしゃいで三島の町をあちこち案内して歩き、昔の三島の思い出を面白おかしく、努めて語って聞かせたのですが、私自身だんだん、しょげて、しまいには、ものも言いたくなくなる程けわしい憂鬱に落ち込んでしまいました。今見る三島は荒涼として、全く他人の町でした。此処《ここ》にはもう、佐吉さんも居ない。妹さんも居ない。江島さんも居ないだろう。佐吉さんの店に毎日集って居た若者達も、今は分別くさい顔になり、女房を怒鳴ったりなどして居るのだろう。どこを歩いても昔の香が無い。三島が色褪《いろあ》せたのではなくして、私の胸が老い干乾《ひから》びてしまったせいかもしれない。八年間、その間には、往年の呑気な帝国大学生の身の上にも、困苦窮乏の月日ばかりが続きました。八年間、その間に私は、二十も年をとりました。やがて雨さえ降って来て、家内も、母も、妹も、いい町です、落ち附いたいい町です、と口ではほめていながら、やはり当惑そうな顔色は蔽《おお》うべくもなく、私は、たまりかねて昔馴染みの飲み屋に皆を案内しました。あまり汚い家なので、門口で女達はためらって居ましたが、私は思わず大声になり、
「店は汚くても、酒はいいのだ。五十年間、お酒の燗ばかりしているじいさんが居るのだ。三島で由緒のある店ですよ。」と言い、むりやり入らせて、見るともう、あの赤シャツを着たおじいさんは居ないのです。つまらない女中さんが出て来て注文を聞きました。店の食卓も、腰掛も、昔のままだったけれど、店の隅に電気蓄音機があったり、壁には映画女優の、下品な大きい似顔絵が貼《は》られてあったり、下等に荒《すさ》んだ感じが濃いのであります。せめて様々の料理を取寄せ、食卓を賑かにして、このどうにもならぬ陰鬱の気配を取払い度く思い、
「うなぎと、それから海老《えび》のおにがら焼と茶碗蒸し、四つずつ、此所で出来なければ、外へ電話を掛けてとって下さい。それから、お酒。」
母はわきで聞いてはらはらして、「いらないよ、そんなに沢山。無駄なことは、およしなさい。」と私のやり切れなかった心も知らず、まじめに言うので、私はいよいよやりきれなく、この世で一ばんしょげてしまいました。
底本:「太宰治全集3」ちくま文庫、筑摩書房
1988(昭和63)年10月25日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版太宰治全集」筑摩書房
1975(昭和50)年6月〜1976(昭和51)年6月刊行
入力:柴田卓治
校正:小林繁雄
1999年12月20日公開
2005年10月23日修正
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