しさうに挨拶をかへしたのである。私はテツさんに妻を引き合せてやつた。私がわざわざ妻を連れて來たのは妻も亦テツさんと同じやうに貧しい育ちの女であるから、テツさんを慰めるにしても、私などよりなにかきつと適切な態度や言葉をもつてするにちがひないと獨斷したからであつた。しかし、私はまんまと裏切られたのである。テツさんと妻は、お互に貴婦人のやうなお辭儀を無言で取り交しただけであつた。私は、まのわるい思ひがして、なんの符號であらうか客車の横腹へしろいペンキで小さく書かれてあるスハフ[#「スハフ」は横組み] 134273 といふ文字のあたりをこつこつと洋傘の柄でたたいたものだ。
 テツさんと妻は天候について二言三言話し合つた。その對話がすんで了ふと、みんなは愈々手持ぶさたになつた。テツさんは、窓縁につつましく並べて置いた丸い十本の指を矢鱈にかがめたり伸ばしたりしながら、ひとつ處をじつと見つめてゐるのであつた。私はそのやうな光景を見て居れなかつたので、テツさんのところからこつそり離れて、長いプラツトフオムをさまよひ歩いたのである。列車の下から吐き出されるスチイムが冷い湯氣となつて、白々と私の足もとを這ひ※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つてゐた。
 私は電氣時計のあたりで立ちどまつて、列車を眺めた。列車は雨ですつかり濡れて、黝く光つてゐた。
 三輛目の三等客車の窓から、思ひ切り首をさしのべて五、六人の見送りの人たちへおろおろ會釋してゐる蒼黒い顏がひとつ見えた。その頃日本では他の或る國と戰爭を始めてゐたが、それに動員された兵士であらう。私は見るべからざるものを見たやうな氣がして、窒息しさうに胸苦しくなつた。
 數年まへ私は或る思想團體にいささかでも關係を持つたことがあつて、のちまもなく見映えのせぬ申しわけを立ててその團體と別れてしまつたのであるが、いま、かうして兵士を眼の前に凝視し、また、恥かしめられ汚されて歸郷して行くテツさんを眺めては、私のあんな申しわけが立つ立たぬどころでないと思つたのである。
 私は頭の上の電氣時計を振り仰いだ。發車まで未だ三分ほど間があつた。私は堪らない氣持がした。誰だつてさうであらうが、見送人にとつて、この發車前の三分間ぐらゐ閉口なものはない。言ふべきことは、すつかり言ひつくしてあるし、ただむなしく顏を見合せてゐるばかりなのである。まして今のこの場合、私はその言ふべき言葉さへなにひとつ考へつかずにゐるではないか。妻がもつと才能のある女であつたならば、私はまだしも氣樂なのであるが、見よ、妻はテツさんの傍にゐながら、むくれたやうな顏をして先刻から默つて立ちつくしてゐるのである。私は思ひ切つてテツさんの窓の方へあるいて行つた。
 發車が間近いのである。列車は四百五十哩の行程を前にしていきりたち、プラツトフオムは色めき渡つた。私の胸には、もはや他人の身の上まで思ひやるやうな、そんな餘裕がなかつたので、テツさんを慰めるのに「災難」といふ無責任な言葉を使つたりした。しかし、のろまな妻は列車の横壁にかかつてある青い鐵札の、水玉が一杯ついた文字を此頃習ひたてのたどたどしい智識でもつて、FOR A−O−MO−RI とひくく讀んでゐたのである。



底本:「太宰治全集2」筑摩書房
   1998(平成10)年5月25日初版第1刷発行
初出:「サンデー東奧」
   1933(昭和8)年2月
※初出の「サンデー東奧」には、懸賞小説として。太宰治名で発表されたはじめての作品。
入力:赤木孝之
校正:田尻幹二
1999年5月31日公開
2009年3月2日修正
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