合、私はその言ふべき言葉さへなにひとつ考へつかずにゐるではないか。妻がもつと才能のある女であつたならば、私はまだしも氣樂なのであるが、見よ、妻はテツさんの傍にゐながら、むくれたやうな顏をして先刻から默つて立ちつくしてゐるのである。私は思ひ切つてテツさんの窓の方へあるいて行つた。
發車が間近いのである。列車は四百五十哩の行程を前にしていきりたち、プラツトフオムは色めき渡つた。私の胸には、もはや他人の身の上まで思ひやるやうな、そんな餘裕がなかつたので、テツさんを慰めるのに「災難」といふ無責任な言葉を使つたりした。しかし、のろまな妻は列車の横壁にかかつてある青い鐵札の、水玉が一杯ついた文字を此頃習ひたてのたどたどしい智識でもつて、FOR A−O−MO−RI とひくく讀んでゐたのである。
底本:「太宰治全集2」筑摩書房
1998(平成10)年5月25日初版第1刷発行
初出:「サンデー東奧」
1933(昭和8)年2月
※初出の「サンデー東奧」には、懸賞小説として。太宰治名で発表されたはじめての作品。
入力:赤木孝之
校正:田尻幹二
1999年5月31日公開
2009年3月2日修正
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