とても望めなかつたのだ。私のひがみからかも知れないが、あのとき若し、テツさんの上京さへなかつたなら、汐田はきつと永久に私から遠のいて了ふつもりであつたらしい。
汐田は私とむつまじい交渉を絶つてから三年目の冬に、突然、私の郊外の家を訪れてテツさんの上京を告げたのである。テツさんは汐田の卒業を待ち兼ねて、ひとりで東京へ逃げて來たのであつた。
そのころには私も或る無學な田舍女と結婚してゐたし、いまさら汐田のその出來事に胸をときめかすやうな、そんな若やいだ氣持を次第にうしなひかけてゐた矢先であつたから、汐田のだしぬけな來訪に幾分まごつきはしたが、彼のその訪問の低意を見拔く事を忘れなかつた。そんな一少女の出奔を知己の間に言ひふらすことが、彼の自尊心をどんなに滿足させたか。私は彼の有頂天を不愉快に感じ、彼のテツさんに對する眞實を疑ひさへした。私のこの疑惑は無殘にも的中してゐた。彼は私にひとしきり、狂喜し感激して見せた揚句、眉間に皺を寄せて、どうしたらいいだらう? といふ相談を小聲で持ちかけたではないか。私は最早、そのやうなひまな遊戲には同情が持てなかつたので、君も悧功になつたね、君がテツさんに昔程の愛を感じられなかつたなら、別れるほかはあるまい、と汐田の思ふつぼを直截に言つてやつた。汐田は、口角にまざまざと微笑をふくめて、しかし、と考へ込んだ。
それから四五日して私は汐田から速達郵便を受け取つた。その葉書には、友人たちの忠告もあり、お互の將來のためにテツさんをくにへ返す、あすの二時半の汽車で歸る筈だ、といふ意味のことがらが簡單に認められてゐた。私は頼まれもせぬのに、テツさんを見送つてやらうと即座に覺悟をきめた。私にはそんな輕はずみなことをしがちな悲しい習性があつたのである。
あくる日は朝から雨が降つてゐた。
私はしぶる妻をせきたてて、一緒に上野驛へ出掛けた。
一〇三號のその列車は、つめたい雨の中で黒煙を吐きつつ發車の時刻を待つてゐた。私たちは列車の窓をひとつひとつたんねんに搜して歩いた。テツさんは機關車のすぐ隣の三等客車に席をとつてゐた。三四年まへに汐田の紹介でいちど逢つたことがあるけれども、あれから見ると顏の色がたいへん白くなつて、頤のあたりもふつくりとふとつてゐるのであつた。テツさんも私の顏を忘れずにゐて呉れて、私が聲をかけたら、すぐ列車の窓から半身乘り出して嬉
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