きことは、すっかり言いつくしてあるし、ただむなしく顔を見合せているばかりなのである。まして今のこの場合、私はその言うべき言葉さえなにひとつ考えつかずにいるではないか。妻がもっと才能のある女であったならば、私はまだしも気楽なのであるが、見よ、妻はテツさんの傍にいながら、むくれたような顔をして先刻から黙って立ちつくしているのである。私は思い切ってテツさんの窓の方へあるいて行った。
発車が間近いのである。列車は四百五十|哩《マイル》の行程を前にしていきりたち、プラットフオムは色めき渡った。私の胸には、もはや他人の身の上まで思いやるような、そんな余裕がなかったので、テツさんを慰めるのに「災難」という無責任な言葉を使ったりした。しかし、のろまな妻は列車の横壁にかかってある青い鉄札の、水玉が一杯ついた文字を此頃習いたてのたどたどしい智識でもって、FOR A−O−MO−RI とひくく読んでいたのである。
底本:「晩年」新潮文庫、新潮社
1947(昭和22)年12月10日発行
1985(昭和60)年10月5日70刷改版
1999(平成11)年6月25日105刷
初出:「サンデー東奧」
1933(昭和8)年2月
※「サンデー東奧」には、懸賞小説として。太宰治名で発表されたはじめての作品。
入力:村田拓哉
校正:青木直子
1999年12月17日公開
2009年1月23日修正
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