を挙げて、しかもその透きとおるような柔い脚を確実に指さしてしまった。令嬢は、そんなにも驚かぬ。少し笑いながら裾《すそ》をおろした。これは日課の、朝の散歩なのかも知れない。佐野君は、自分の、指さした右手の処置に、少し困った。初対面の令嬢の脚を、指さしたり等して、失礼であった、と後悔した。「だめですよ、そんな、――」と意味のはっきりしない言葉を、非難の口調で呟いて、颯《さ》っと令嬢の傍をすり抜けて、後を振り向かず、いそいで歩いた。躓《つまず》いた。こんどは、ゆっくり歩いた。
河原へ降りた。幹が一抱え以上もある柳の樹蔭《こかげ》に腰をおろして、釣糸を垂れた。釣れる場所か、釣れない場所か、それは問題じゃない。他の釣師が一人もいなくて、静かな場所ならそれでいいのだ。釣の妙趣は、魚を多量に釣り上げる事にあるのでは無くて、釣糸を垂れながら静かに四季の風物を眺め楽しむ事にあるのだ、と露伴先生も教えているそうであるが、佐野君も、それは全くそれに違いないと思っている。もともと佐野君は、文人としての魂魄《こんぱく》を練るために、釣をはじめたのだから、釣れる釣れないは、いよいよ問題でないのだ。静かに釣糸を垂れ、もっぱら四季の風物を眺め楽しんでいるのである。水は、囁《ささや》きながら流れている。鮎が、すっと泳ぎ寄って蚊針をつつき、ひらと身をひるがえして逃れ去る。素早いものだ、と佐野君は感心する。対岸には、紫陽花《あじさい》が咲いている。竹藪《たけやぶ》の中で、赤く咲いているのは夾竹桃《きょうちくとう》らしい。眠くなって来た。
「釣れますか?」女の声である。
もの憂げに振り向くと、先刻の令嬢が、白い簡単服《かんたんふく》を着て立っている。肩には釣竿をかついでいる。
「いや、釣れるものではありません。」へんな言いかたである。
「そうですか。」令嬢は笑った。二十歳にはなるまい。歯が綺麗だ。眼が綺麗だ。喉《のど》は、白くふっくらして溶けるようで、可愛い。みんな綺麗だ。釣竿を肩から、おろして、「きょうは解禁の日ですから、子供にでも、わけなく釣れるのですけど。」
「釣れなくたっていいんです。」佐野君は、釣竿を河原の青草の上にそっと置いて、煙草をふかした。佐野君は、好色の青年ではない。迂濶《うかつ》なほうである。もう、その令嬢を問題にしていないという澄ました顔で、悠然と煙草のけむりを吐いて、そうして四季の風物を眺めている。
「ちょっと、拝見させて。」令嬢は、佐野君の釣竿を手に取り、糸を引き寄せて針をひとめ見て、「これじゃ、だめよ。鮠《はや》の蚊針じゃないの。」
佐野君は、恥をかかされたと思った。ごろりと仰向《あおむけ》に河原に寝ころんだ。「同じ事ですよ。その針でも、一二匹釣れました。」嘘を言った。
「あたしの針を一つあげましょう。」令嬢は胸のポケットから小さい紙包をつまみ出して、佐野君の傍にしゃがみ、蚊針の仕掛けに取りかかった。佐野君は寝ころび、雲を眺めている。
「この蚊針はね、」と令嬢は、金色の小さい蚊針を佐野君の釣糸に結びつけてやりながら呟く。「この蚊針はね、おそめという名前です。いい蚊針には、いちいち名前があるのよ。これは、おそめ。可愛い名でしょう?」
「そうですか、ありがとう。」佐野君は、野暮《やぼ》である。何が、おそめだ。おせっかいは、もうやめて、早く向うへ行ってくれたらいい。気まぐれの御親切は、ありがた迷惑だ。
「さあ、出来ました。こんどは釣れますよ。ここは、とても釣れるところなのです。あたしは、いつも、あの岩の上で釣っているの。」
「あなたは、」佐野君は起き上って、「東京の人ですか?」
「あら、どうして?」
「いや、ただ、――」佐野君は狼狽《ろうばい》した。顔が赤くなった。
「あたしは、この土地のものよ。」令嬢の顔も、少し赤くなった。うつむいて、くすくす笑いながら岩のほうへ歩いて行った。
佐野君は、釣竿を手に取って、再び静かに釣糸を垂れ、四季の風物を眺めた。ジャボリという大きな音がした。たしかに、ジャボリという音であった。見ると令嬢は、見事に岩から落ちている。胸まで水に没している。釣竿を固く握って、「あら、あら。」と言いながら岸に這《は》い上って来た。まさしく濡れ鼠のすがたである。白いドレスが両脚にぴったり吸いついている。
佐野君は、笑った。実に愉快そうに笑った。ざまを見ろという小気味のいい感じだけで、同情の心は起らなかった。ふと笑いを引っ込めて、叫んだ。
「血が!」
令嬢の胸を指さした。けさは脚を、こんどは胸を、指さした。令嬢の白い簡単服の胸のあたりに血が、薔薇《ばら》の花くらいの大きさでにじんでいる。
令嬢は、自分の胸を、うつむいてちらと見て、
「桑の実よ。」と平気な顔をして言った。「胸のポケットに、桑の実をいれて置いたのよ。あとで食
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