季の風物を眺めている。
「ちょっと、拝見させて。」令嬢は、佐野君の釣竿を手に取り、糸を引き寄せて針をひとめ見て、「これじゃ、だめよ。鮠《はや》の蚊針じゃないの。」
佐野君は、恥をかかされたと思った。ごろりと仰向《あおむけ》に河原に寝ころんだ。「同じ事ですよ。その針でも、一二匹釣れました。」嘘を言った。
「あたしの針を一つあげましょう。」令嬢は胸のポケットから小さい紙包をつまみ出して、佐野君の傍にしゃがみ、蚊針の仕掛けに取りかかった。佐野君は寝ころび、雲を眺めている。
「この蚊針はね、」と令嬢は、金色の小さい蚊針を佐野君の釣糸に結びつけてやりながら呟く。「この蚊針はね、おそめという名前です。いい蚊針には、いちいち名前があるのよ。これは、おそめ。可愛い名でしょう?」
「そうですか、ありがとう。」佐野君は、野暮《やぼ》である。何が、おそめだ。おせっかいは、もうやめて、早く向うへ行ってくれたらいい。気まぐれの御親切は、ありがた迷惑だ。
「さあ、出来ました。こんどは釣れますよ。ここは、とても釣れるところなのです。あたしは、いつも、あの岩の上で釣っているの。」
「あなたは、」佐野君は起き上って、「東京の人ですか?」
「あら、どうして?」
「いや、ただ、――」佐野君は狼狽《ろうばい》した。顔が赤くなった。
「あたしは、この土地のものよ。」令嬢の顔も、少し赤くなった。うつむいて、くすくす笑いながら岩のほうへ歩いて行った。
佐野君は、釣竿を手に取って、再び静かに釣糸を垂れ、四季の風物を眺めた。ジャボリという大きな音がした。たしかに、ジャボリという音であった。見ると令嬢は、見事に岩から落ちている。胸まで水に没している。釣竿を固く握って、「あら、あら。」と言いながら岸に這《は》い上って来た。まさしく濡れ鼠のすがたである。白いドレスが両脚にぴったり吸いついている。
佐野君は、笑った。実に愉快そうに笑った。ざまを見ろという小気味のいい感じだけで、同情の心は起らなかった。ふと笑いを引っ込めて、叫んだ。
「血が!」
令嬢の胸を指さした。けさは脚を、こんどは胸を、指さした。令嬢の白い簡単服の胸のあたりに血が、薔薇《ばら》の花くらいの大きさでにじんでいる。
令嬢は、自分の胸を、うつむいてちらと見て、
「桑の実よ。」と平気な顔をして言った。「胸のポケットに、桑の実をいれて置いたのよ。あとで食
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