浦君は、私にも意見を求めた。私ならば一瞬も迷わぬ。確定的だ。けれども、ひとの好ききらいは格別のものであるから、私は、はっきり具体的には指図《さしず》できなかった。私は予言者ではない。三浦君の将来の幸、不幸を、たったいま責任を以て教えてあげる程の自信は無い。私は、その日、聖書の一箇所を三浦君に読ませた。
――イエス或村に入り給へば、マルタと名づくる女おのが家に迎へ入る。その姉妹にマリヤといふ者ありて、イエスの足下に坐し、御言《みことば》を聴きをりしが、マルタ饗応《もてなし》のこと多くして心いりみだれ、御許に進みよりて言ふ「主よ、わが姉妹われを一人のこして働かするを、何とも思ひ給はぬか、彼に命じて我を助けしめ給へ」主、答へて言ふ「マルタよ、マルタよ、汝さまざまの事により思ひ煩ひて心労《こころづかい》す。されど無くてならぬものは多からず、唯一つのみ、マリヤは善きかたを選びたり。此《これ》は彼より奪ふべからざるものなり。」(ルカ伝十章三八以下。)
私は、ただ読ませただけで、なんの説明も附加しなかった。三浦君は、首をかしげて考えていたが、やがて、淋《さび》しそうに笑って、「ありがとう。」と言った。
けれども、それから十日ほど経って、三浦君から、姉の律子と結婚する事にきめました、という実に案外な手紙が来た。なんという事だ。私は、義憤に似たものを感じた。三浦君は、結婚の問題に於いても、やっぱり極度の近視眼なのではあるまいか。読者は如何に思うや。
底本:「太宰治全集5」ちくま文庫、筑摩書房
1989(平成元)年1月31日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版太宰治全集」筑摩書房
1975(昭和50)年6月〜1976(昭和51)年6月
入力:柴田卓治
校正:高橋真也
2000年4月1日公開
2005年10月30日修正
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