て、土地の人から、つまらぬ誤解を受けたくなかった。おそろしかった。けれども貞子は平気だ。
「わかってるわよ。姉さんは模範的なお嬢さんだから、軽々しくお見送りなんか出来ないのね。でも、あたしは行くわよ。もうまた、しばらく逢えないかも知れないんだものねえ。あたしは断然、送って行く。」
 停留所に着いた。三人、ならんで立って、バスを待った。お互いに気まずく無言だった。
「私も、行く。」幽《かす》かに笑って、律子が呟《つぶや》いた。
「行こう。」貞子は勇気百倍した。「行こうよ。本当は、甲府まで送って行きたいんだけど、がまんしよう。船津まで、ね、一緒に行こうよ。」
「きっと、船津で降りるのよ。町の、知ってる人がたくさんバスに乗っているんだから、私たちはお互いに澄まして、他人の振りをしているのよ。船津でおわかれする時にも、だまって降りてしまうのよ。私は、それでなくちゃ、いや。」律子は用心深い。
「それで結構。」と三浦君は思わず口を滑らせた。
 バスが来た。約束どおり三浦君は、姉妹とは全然他人の振りをして、ひとりずっと離れて座席にすわった。なるほど、バスの乗客の大部分はこの土地の人らしく、美しい姉妹に慇懃《いんぎん》な会釈《えしゃく》をする。どちらまで? と尋ねる人もある。
「は、船津まで、買い物に。」律子は澄まして嘘《うそ》を吐《つ》いている。完全に、三浦君の存在を忘れているみたいな様子だ。けれども、貞子は、下手くそだ。絶えず、ちらちらと三浦君のほうを見ては、ぷっと噴き出しそうになって、あわてて窓の外を眺めて、笑いをごまかしている。松の並木道。坂道。バスは走る。
 船津。湖水の岸に、バスはとまった。律子は土地の乗客たちに軽くお辞儀をして、静かに降りた。三浦君のほうには一瞥《いちべつ》もくれなかったという。降りてそのまま、バスに背を向けて歩き出した。貞子は、あわてそそくさと降りて、三浦君のほうを振り返り振り返り、それでも姉の後に附いて行った。
 三浦君のバスは動いた。いきなり妹は、くるりとこちらに向き直って一散に駈けた。バスも走る。妹は、泣くように顔をゆがめて二十メートルくらい追いかけて、立ちどまり、
「兄ちゃん!」と高く叫んで、片手を挙げた。
 以上は、三浦君の羨やむべき艶聞の大略であるが、さて問題は、この姉と妹、どちらにしたらいいか三浦君が迷っているという事にあるのだ。
 三浦君は、私にも意見を求めた。私ならば一瞬も迷わぬ。確定的だ。けれども、ひとの好ききらいは格別のものであるから、私は、はっきり具体的には指図《さしず》できなかった。私は予言者ではない。三浦君の将来の幸、不幸を、たったいま責任を以て教えてあげる程の自信は無い。私は、その日、聖書の一箇所を三浦君に読ませた。
 ――イエス或村に入り給へば、マルタと名づくる女おのが家に迎へ入る。その姉妹にマリヤといふ者ありて、イエスの足下に坐し、御言《みことば》を聴きをりしが、マルタ饗応《もてなし》のこと多くして心いりみだれ、御許に進みよりて言ふ「主よ、わが姉妹われを一人のこして働かするを、何とも思ひ給はぬか、彼に命じて我を助けしめ給へ」主、答へて言ふ「マルタよ、マルタよ、汝さまざまの事により思ひ煩ひて心労《こころづかい》す。されど無くてならぬものは多からず、唯一つのみ、マリヤは善きかたを選びたり。此《これ》は彼より奪ふべからざるものなり。」(ルカ伝十章三八以下。)
 私は、ただ読ませただけで、なんの説明も附加しなかった。三浦君は、首をかしげて考えていたが、やがて、淋《さび》しそうに笑って、「ありがとう。」と言った。
 けれども、それから十日ほど経って、三浦君から、姉の律子と結婚する事にきめました、という実に案外な手紙が来た。なんという事だ。私は、義憤に似たものを感じた。三浦君は、結婚の問題に於いても、やっぱり極度の近視眼なのではあるまいか。読者は如何に思うや。



底本:「太宰治全集5」ちくま文庫、筑摩書房
   1989(平成元)年1月31日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版太宰治全集」筑摩書房
   1975(昭和50)年6月〜1976(昭和51)年6月
入力:柴田卓治
校正:高橋真也
2000年4月1日公開
2005年10月30日修正
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