るものかな。まさしく昨日なり、出雲《いずも》の人にして中山といわるる大人が、まさしく同じ琴を造る事を命じたまいぬ、と。勾当は、ただちにその中山という人の宿を訪れて草々語らい、その琴の構造、わが発明と少しも違うところ無きを知り、かえって喜び、貴下は一日はやく註文したるものなれば、とて琴の発明の栄冠を、手軽く中山氏に譲ってやった。現在世に行われている「八雲琴」は、これである。発明者は、中山通郷氏という事になっている。なお彼は、文政十年、十六歳の春より人に代筆せしめ稽古日記を物し始めたが、天保八年、二十六歳になってからは、平仮名いろは四十八文字、ほかに数字一より十まで、日、月、同、御、候の常用漢字、変体仮名、濁点、句読点など三十個ばかり、合わせても百字に足りぬものを木製活字にして作らせ、之を縦八寸五分、横四寸七分、深さ一寸三分の箱に順序正しく納めて常時携帯、ありしこと思うことそのままに、一字一字、手さぐりにて押し印し、死に至るまで四十余年間ついに中止せず克明にしるし続けた。ほとんど一世紀以前、日本の片隅に於て活版術を実用化せしもの既にありといっても過言で無い。そのほか、勾当の逸事は枚挙に遑《いとま》なし。盲人一流の芸者として当然の事なれども、触覚鋭敏|精緻《せいち》にして、琉球時計という特殊の和蘭《オランダ》製の時計の掃除、修繕を探りながら自らやって楽しんでいた。若き頃より歯が悪く、方々より旅の入歯師来れどもなかなかよき師にめぐり合う事なく、遂に自分で小刀細工して入歯を作った。折紙細工に長じ、炬燵《こたつ》の中にて、弟子たちの習う琴の音を聴き正しつつ、鼠、雉《きじ》、蟹《かに》、法師、海老《えび》など、むずかしき形をこっそり紙折って作り、それがまた不思議なほどに実体によく似ていた。また、弘化二年、三十四歳の晩春、毛筆の帽被を割りたる破片を机上に精密に配列し以て家屋の設計図を製し、之によりて自分の住宅を造らせた。けれども、この家屋設計だけには、わずかに盲人らしき手落があった。ひどい暑がりにて、その住居も、風通しのよき事をのみ考えて設計せしが、光線の事までは考え及ばざりしものの如く、今に残れるその家には、暗き部屋幾つもありというのも哀れである。されど、之等《これら》は要するに皆かれの末技にして、真に欽慕《きんぼ》すべきは、かれの天稟《てんぴん》の楽才と、刻苦精進して夙《はや》く鬱然一家をなし、世の名利をよそにその志す道に悠々自適せし生涯とに他ならぬ。かれの手さぐりにて自記した日記は、それらの事情を、あますところ無く我らに教える。勾当、病歿せしは明治十五年、九月八日。年齢、七十一歳也。
以上は、私が人名辞典やら、「葛原勾当日記」の諸家の序やら跋やら、または編者の筆になるところの年譜、逸話集、写真説明の文など、諸処方々から少しずつ無断盗用して、あやうく、纏《まと》めた故葛原勾当の極めて大ざっぱな略伝である。その人と為《な》りに就いての、私一個人の偽らぬ感想は、わざと避けた。日記の文章に就いての批評も、ようせぬつもりだ。今は、読者にその日記のほんの一部分を読んでいただけたら、それでよいのである。私一個人の感想も、批評も、自らその中に溶け込ませているつもりである。そのわけは、とにかく日記を読んでもらった後で申し上げることにしたい。ここには、勾当二十六歳、青春一年間の日記だけを、展開する。全日記の、謂《い》わば四十分の一に過ぎない。けれども、読者に不足を感じさせるような事は無い。そのわけも、日記の「あとかき」として申し上げる。いまは、勾当二十六歳正月一日の、手さぐりで一字一字押し印した日記の本文から、読者と共に、ゆっくり読みすすめる。本文は、すべて平仮名のみにて、甚だ読みにくいゆえ、私は独断で、適度の漢字まじりにする。盲人の哀しい匂いを消さぬ程度に。
葛原勾当日記。天保八酉年。
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○正月一日。同よめる。
たちかゑる。としのはしめは。なにとなく。しつがこころも。あらたまりぬる。
山うば。琴にて。五へん。
○同二日。ゑちごじし。琴にて。十二へん。
おふへ村、ちよ美、八つときに、きたる。あづまじし。さみせんと合はせたること、そのかずをしらず。
おもうとち。しらべてあそぶ。いとたけの。かずにひかれて。けふもくらしつ。
ゑちごじし。同五へん。
○同三日。なにごともなく。
○同四日。けいこ、はじめ。
おせん。琴。きぬた。
あぶらやのおせつ。琴。さよかぐら。
とみよしや、おぬゐ。琴。うすごろも。
おりやう。琴。ゆきのあした。
すみ寿。琴。さくらつくし。
おあそ。琴。きりつぼ。
おけふ。琴。こむらさき。
おのみちや、こわさ。さみせん。四きのながめ。
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