哀想《かわいそう》だ。」
「いいえ、でも、それほどまでに強く書かなくちゃ駄目なんです。彼女は、彼女は、僕の帰還を何年でも待つ、と言って寄こしているのですから。」
「悪かった、悪かった。」ほかに言いようの無い気持だった。

        三

 ささやかな事件かも知れない。しかし、この事件が、当時も、またいまも、僕をどんなに苦しめているかわからない。すべて、僕の責任である。僕は、あの日、君と別れて、その帰りみち、高円寺の菊屋に立寄った。実にもう、一年振りくらいの訪問であった。表の戸は、しまっている。裏へ廻ったが、台所の戸も、しまっている。
「菊屋さん、菊屋さん。」と呼んだが、何の返事も無い。
 あきらめて家へ帰った。しかし、どうにも気がかりだ。僕はそれから十日ほど経って、また高円寺へ行ってみた。こんどは、表の戸が雑作《ぞうさ》なくあいた。けれども、中には、見た事も無い老婆がひとりいただけであった。
「あの、おじさんは?」
「菊川さんか?」
「ええ。」
「四、五日前、皆さん田舎《いなか》のほうへ、引上げて行きました。」
「前から、そんな話があったのですか?」
「いいえ、急にね。荷物も大部
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