君の身辺の者はもう向うへ行ってしまったよ。」
「相変らず先生は臆病だな。落着きというものが無い。あの身辺の者たちは、駅の前で解散になって、それから朝食という事になるのですよ。あ、ちょっとここで待っていて下さい。弁当をもらって来ますからね。先生のぶんも貰《もら》って来ます。待っていて下さい。」と言って、走りかけ、また引返し、「いいですか。ここにいて下さいよ。すぐに帰って来ますから。」
君はどういう意味か、紫の袋にはいった君の軍刀を僕にあずけて、走り去った。僕は、まごつきながらも、その軍刀を右手に持って君を待った。しばらくして君は、竹の皮に包まれたお弁当を二つかかえて現れ、
「残念です。嗚呼《ああ》、残念だ。時間が無いんですよ、もう。」
「何時間も無いのか? もう、すぐか?」と僕は、君の所謂《いわゆる》落着きの無いところを発揮した。
「十一時三十分まで。それまでに、駅前に集合して、すぐ出発だそうです。」
「いま何時だ。」君の愚かな先生は、この十五、六年間、時計というものを持った事が無い。時計をきらいなのでは無く、時計のほうでこの先生をきらいらしいのである。時計に限らず、たいていの家財は、先生をきらって寄り附かない具合である。
君は、君の腕時計を見て、時刻を報告した。十一時三十分まで、もう三時間くらいしか無い。僕は、君を吉祥寺のスタンドバアに引っぱって行く事を、断念しなければいけなかった。上野から吉祥寺まで、省線で一時間かかる。そうすると、往復だけで既に二時間を費消する事になる。あと一時間。それも落着きの無い、絶えず時計ばかり気にしていなければならぬ一時間である。意味無い、と僕はあきらめた。
「公園でも散歩するか。」泣きべそを掻《か》くような気持であった。
僕は今でもそうだが、こんな時には、お祭りに連れて行かれず、家にひとり残された子供みたいな、天をうらみ、地をのろうような、どうにもかなわない淋《さび》しさに襲われるのだ。わが身の不幸、などという大袈裟《おおげさ》な芝居がかった言葉を、冗談でなく思い浮べたりするのである。しかし、君は平気で、
「まいりましょう。」と言う。
僕は君に軍刀を手渡し、
「どうもこの紐《ひも》は趣味が悪いね。」と言った。軍刀の紫の袋には、真赤な太い人絹の紐がぐるぐる巻きつけられ、そうして、その紐の端には御ていねいに大きい総《ふさ》などが附けられてある。
「先生には、まだ色気があるんですね。恥かしかったですか?」
「すこし、恥かしかった。」
「そんなに見栄坊《みえぼう》では、兵隊になれませんよ。」
僕たちは駅から出て上野公園に向った。
「兵隊だって見栄坊さ。趣味のきわめて悪い見栄坊さ。」
帝国主義の侵略とか何とかいう理由からでなくとも、僕は本能的に、或《ある》いは肉体的に兵隊がきらいであった。或る友人から「服役中は留守宅の世話|云々《うんぬん》」という手紙をもらい、その「服役」という言葉が、懲役《ちょうえき》にでも服しているような陰惨な感じがして、これは「服務中」の間違いではなかろうかと思って、ひとに尋ねてみたが、やはりそれは「服役」というのが正しい言い習わしになっていると聞かされ、うんざりした事がある。
「酒を飲みたいね。」と僕は、公園の石段を登りながら、低くひとりごとのように言った。
「それも、悪い趣味でしょう。」
「しかし、少くとも、見栄ではない。見栄で酒を飲む人なんか無い。」
僕は公園の南洲の銅像の近くの茶店にはいって、酒は無いかと聞いてみた。有る筈《はず》はない。お酒どころか、その頃の日本の飲食店には、既にコーヒーも甘酒も、何も無くなっていたのである。
茶店の娘さんに冷く断られても、しかし、僕はひるまなかった。
「御主人がいませんか。ちょっと逢いたいのですが。」と僕は真面目《まじめ》くさってそう言った。
やがて出て来た頭の禿《は》げた主人に向って、僕は今日の事情をめんめんと訴え、
「何かありませんか。なんでもいいんです。ひとえにあなたの義侠心《ぎきょうしん》におすがりします。たのみます。ひとえにあなたの義侠心に、……」という具合にあくまでもねばり、僕の財布の中にあるお金を全部、その主人に呈出した。
「よろしい!」とその頭の禿げた主人は、とうとう義侠心を発揮してくれた。「そんなわけならば、私の晩酌用のウィスキイを、わけてあげます。お金は、こんなにたくさん要《い》りません。実費でわけてあげます。そのウィスキイは、私は誰にも飲ませたくないから、ここに隠してあるのです。」
主人は、憤激しているようなひどく興奮のていで、矢庭《やにわ》に座敷の畳をあげ、それから床板を起し、床下からウィスキイの角瓶を一本とり出した。「万歳!」と僕は言って、拍手した。
そうして、僕たちはその座敷にあがり込んで乾
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