みさんの義侠心に訴えて、さらに一本を懇願しても、顔をしかめるばかりで相手にしない。さらに愁訴《しゅうそ》すると、奥から親爺が顔を出して、さあさあ皆さん帰りなさい、いまは日本では酒の製造量が半分以下になっているのです。貴重なものです。いったい学生には酒を飲ませない事に私どもではきめているのですがね、と興覚めな事を言う。よろしい、それならば、と僕たちはこの不人情のおでんやに対して、或る種の悪計をたくらんだのだった。
まず僕が、或る日の午後、まだおでんやが店をあけていない時に、その店の裏口から真面目くさってはいって行った。
「おじさん、いるかい。」と僕は、台所で働いている娘さんに声をかけた。この娘さんは既に女学校を卒業している。十九くらいではなかったかしら。内気そうな娘さんで、すぐ顔を赤くする。
「おります。」と小さい声で言って、もう顔を真赤にしている。
「おばさんは?」
「おります。」
「そう。それはちょうどいい。二階か?」
「ええ。」
「ちょっと用があるんだけどな。呼んでくれないか。おじさんでも、おばさんでも、どっちでもいい。」
娘さんは二階へ行き、やがて、おじさんが糞《くそ》まじめな顔をして二階から降りて来た。悪党のような顔をしている。
「用事ってのは、酒だろう。」と言う。
僕はたじろいだが、しかし、気を取り直し、
「うん、飲ませてくれるなら、いつだって飲むがね。しかし、ちょっとおじさん、話があるんだ。店のほうへ来ないか?」
僕は薄暗い店のほうにおじさんをおびき寄せた。
あれは昭和十六年の暮であったか、昭和十七年の正月であったか、とにかく、冬であったのはたしかで、僕は店のこわれかかった椅子《いす》に腰をおろし、トンビの袖《そで》をはねてテーブルに頬杖《ほおづえ》をつき、
「まあ、あなたもお坐り。悪い話じゃない。」
おじさんは、渋々、僕と向い合った椅子に腰をおろして、
「結局は、酒さ。」とぶあいそな顔で言った。
僕は、見破られたかと、ぎょっとしたが、ごまかし笑いをして、
「信用が無いようだね。それじゃ、よそうかな。マサちゃん(娘の名)の縁談なんだけどね。」
「だめ、だめ。そんな手にゃ乗らん。何のかのと言って、それから、酒さ。」
実に、手剛《てごわ》い。僕たちの悪計もまさに水泡《すいほう》に帰《き》するかの如《ごと》くに見えた。
「そんなにはっきり言うな
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