やはりどこか間違つてゐる、これは違ふ、と再び思ひまどふのである。
朝に、夕に、富士を見ながら、陰欝な日を送つてゐた。十月の末に、麓の吉田のまちの、遊女の一団体が、御坂峠へ、おそらくは年に一度くらゐの開放の日なのであらう、自動車五台に分乗してやつて来た。私は二階から、その様を見てゐた。自動車からおろされて、色さまざまの遊女たちは、バスケットからぶちまけられた一群の伝書鳩のやうに、はじめは歩く方向を知らず、ただかたまつてうろうろして、沈黙のまま押し合ひ、へし合ひしてゐたが、やがてそろそろ、その異様の緊張がほどけて、てんでにぶらぶら歩きはじめた。茶店の店頭に並べられて在る絵葉書を、おとなしく選んでゐるもの、佇《たたず》んで富士を眺めてゐるもの、暗く、わびしく、見ちや居れない風景であつた。二階のひとりの男の、いのち惜しまぬ共感も、これら遊女の幸福に関しては、なんの加へるところがない。私は、ただ、見てゐなければならぬのだ。苦しむものは苦しめ。落ちるものは落ちよ。私に関係したことではない。それが世の中だ。さう無理につめたく装ひ、かれらを見下ろしてゐるのだが、私は、かなり苦しかつた。
富士にたのまう。突然それを思ひついた。おい、こいつらを、よろしく頼むぜ、そんな気持で振り仰げば、寒空のなか、のつそり突つ立つてゐる富士山、そのときの富士はまるで、どてら姿に、ふところ手して傲然《がうぜん》とかまへてゐる大親分のやうにさへ見えたのであるが、私は、さう富士に頼んで、大いに安心し、気軽くなつて茶店の六歳の男の子と、ハチといふむく犬を連れ、その遊女の一団を見捨てて、峠のちかくのトンネルの方へ遊びに出掛けた。トンネルの入口のところで、三十歳くらゐの痩せた遊女が、ひとり、何かしらつまらぬ草花を、だまつて摘み集めてゐた。私たちが傍を通つても、ふりむきもせず熱心に草花をつんでゐる。この女のひとのことも、ついでに頼みます、とまた振り仰いで富士にお願ひして置いて、私は子供の手をひき、とつとと、トンネルの中にはひつて行つた。トンネルの冷い地下水を、頬に、首筋に、滴々と受けながら、おれの知つたことぢやない、とわざと大股に歩いてみた。
そのころ、私の結婚の話も、一頓挫《いちとんざ》のかたちであつた。私のふるさとからは、全然、助力が来ないといふことが、はつきり判つてきたので、私は困つて了つた。せめて百円くらゐは、助力してもらへるだらうと、虫のいい、ひとりぎめをして、それでもつて、ささやかでも、厳粛な結婚式を挙げ、あとの、世帯を持つに当つての費用は、私の仕事でかせいで、しようと思つてゐた。けれども、二、三の手紙の往復に依り、うちから助力は、全く無いといふことが明らかになつて、私は、途方にくれてゐたのである。このうへは、縁談ことわられても仕方が無い、と覚悟をきめ、とにかく先方へ、事の次第を洗ひざらひ言つて見よう、と私は単身、峠を下り、甲府の娘さんのお家へお伺ひした。さいはひ娘さんも、家にゐた。私は客間に通され、娘さんと母堂と二人を前にして、悉皆《しつかい》の事情を告白した。ときどき演説口調になつて、閉口した。けれども、割に素直に語りつくしたやうに思はれた。娘さんは、落ちついて、
「それで、おうちでは、反対なのでございませうか。」と、首をかしげて私にたづねた。
「いいえ、反対といふのではなく、」私は右の手のひらを、そつと卓の上に押し当て、「おまへひとりで、やれ、といふ工合ひらしく思はれます。」
「結構でございます。」母堂は、品よく笑ひながら、「私たちも、ごらんのとほりお金持ではございませぬし、ことごとしい式などは、かへつて当惑するやうなもので、ただ、あなたおひとり、愛情と、職業に対する熱意さへ、お持ちならば、それで私たち、結構でございます。」
私は、お辞儀するのも忘れて、しばらく呆然と庭を眺めてゐた。眼の熱いのを意識した。この母に、孝行しようと思つた。
かへりに、娘さんは、バスの発着所まで送つて来て呉れた。歩きながら、
「どうです。もう少し交際してみますか?」
きざなことを言つたものである。
「いいえ。もう、たくさん。」娘さんは、笑つてゐた。
「なにか、質問ありませんか?」いよいよ、ばかである。
「ございます。」
私は何を聞かれても、ありのまま答へようと思つてゐた。
「富士山には、もう雪が降つたでせうか。」
私は、その質問に拍子抜けがした。
「降りました。いただきのはうに、――」と言ひかけて、ふと前方を見ると、富士が見える。へんな気がした。
「なあんだ。甲府からでも、富士が見えるぢやないか。ばかにしてゐやがる。」やくざな口調になつてしまつて、「いまのは、愚問です。ばかにしてゐやがる。」
娘さんは、うつむいて、くすくす笑つて、
「だつて、御坂峠にいらつしやるので
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