けて行つて、あとには娘さんひとり、遊覧の客もなし、一日中、私と娘さんと、ふたり切り、峠の上で、ひつそり暮すことがある。私が二階で退屈して、外をぶらぶら歩きまはり、茶店の背戸で、お洗濯してゐる娘さんの傍へ近寄り、
「退屈だね。」
 と大声で言つて、ふと笑ひかけたら、娘さんはうつむき、私はその顔を覗《のぞ》いてみて、はつと思つた。泣きべそかいてゐるのだ。あきらかに恐怖の情である。さうか、と苦が苦がしく私は、くるりと廻れ右して、落葉しきつめた細い山路を、まつたくいやな気持で、どんどん荒く歩きまはつた。
 それからは、気をつけた。娘さんひとりきりのときには、なるべく二階の室から出ないやうにつとめた。茶店にお客でも来たときには、私がその娘さんを守る意味もあり、のしのし二階から降りていつて、茶店の一隅に腰をおろしゆつくりお茶を飲むのである。いつか花嫁姿のお客が、紋附を着た爺さんふたりに附き添はれて、自動車に乗つてやつて来て、この峠の茶屋でひと休みしたことがある。そのときも、娘さんひとりしか茶店にゐなかつた。私は、やはり二階から降りていつて、隅の椅子に腰をおろし、煙草をふかした。花嫁は裾模様の長い着物を着て、金襴《きんらん》の帯を背負ひ、角隠しつけて、堂々正式の礼装であつた。全く異様のお客様だつたので、娘さんもどうあしらひしていいのかわからず、花嫁さんと、二人の老人にお茶をついでやつただけで、私の背後にひつそり隠れるやうに立つたまま、だまつて花嫁のさまを見てゐた。一生にいちどの晴の日に、――峠の向ふ側から、反対側の船津か、吉田のまちへ嫁入りするのであらうが、その途中、この峠の頂上で一休みして、富士を眺めるといふことは、はたで見てゐても、くすぐつたい程、ロマンチックで、そのうちに花嫁は、そつと茶店から出て、茶店のまへの崖のふちに立ち、ゆつくり富士を眺めた。脚をX形に組んで立つてゐて、大胆なポオズであつた。余裕のあるひとだな、となほも花嫁を、富士と花嫁を、私は観賞してゐたのであるが、間もなく花嫁は、富士に向つて、大きな欠伸《あくび》をした。
「あら!」
 と背後で、小さい叫びを挙げた。娘さんも、素早くその欠伸を見つけたらしいのである。やがて花嫁の一行は、待たせて置いた自動車に乗り、峠を降りていつたが、あとで花嫁さんは、さんざんだつた。
「馴れてゐやがる。あいつは、きつと二度目、いや、
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